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映画「300」と民主政〜長良川河口堰

 権 力はやがて腐敗する・・・だがそのとき、日本は腐敗した政権に変わる政党をもたない極めて不安定な政治体制の国となりそうである。プラトン(ソクラテス)もアリストテレスも「民主政」が腐敗したのち、最悪の政体「僣主政」が出現すると不気味な予言を残している。その予言は20世紀前半のドイツにおいて現実のものになった。

 そ んなことを考えていたとき、もう随分昔に書いた文章を思い出した。文章の中に「長良川河口堰」とか「昼間のパパは男だぜい」(by忌野清志郎)とか「阪神淡路大震災」とか「住専問題」とか出てくるので、おそらく13、4年以上前のものである。だが、自民党の自壊によって早くも二大政党制が崩壊するのなら、こういう党是の政党の出現を待つしかないのではなかろうか?



「新しい政治」

 新しい党名「環境と安全と文化を経済と文明に優先して考える党」(あえて短縮した呼称を用いない。公共の電波でこの言いにくくナガーイ党名が連呼されればサブリミナル効果としてみんながそのように考える・・かも知れない)

 保守か革新かではなく、資本主義か社会(共産)主義かでもない。原子力か原始力かではなく、ハンバーガーか玄米かでもない。すべての問題を上記のように2つの対立軸にわけて考えるのではなく、すべての問題において「環境と安全と文化」を「経済と文明」に優先させて考えることを党是とする。

 現在の日本を株式会社にたとえるなら「環境と安全と文化」という資本家グループと「経済と文明」という2つの資本家グループがせめぎあう合弁会社のようなものである。この株式会社「日本」は、どちらか一方だけの株主が独占する会社であってはならないことはもう明らかだ。それは資本主義の行き詰まりと共産主義の崩壊が実証している。

 現在の株式会社日本における「環境と安全と文化」グループと「経済と文明」グループの資本割合は30%対70%くらいである。しかし、「豊かな」日本であり続けるためには、この比率は「環境と安全と文化」派が「経済と文明」派にどれほど追いまくられたとしても51体対49で踏みとどまるべきであると考える。この比率が逆転することがあってはならないと考えるが果たしてそれは正しいのであろうか。

 これらのことを最近のトピックスで検証してみよう。

1. ダム建設か環境保護か

 長良川河口堰の建設促進派の主張の一つは「洪水対策」であり、「建設反対派にとって「住民の安全を考えないのか!」というのは結構殺し文句であった。建設反対派はこの数百年洪水は起こっておらずダム建設によって砂利が堆積することによりかえって洪水の危険性が増すと主張していたけれど、「洪水で死んだらその責任は誰がとるのか」は恫喝材として、強力だった。

 一方、神戸において都市開発が計画されたとき、民間の学者を中心に活断層の活動による地震の危険性が指摘されていた。しかし計画推進派の主張は「何時起こるかわからない地震のことを考えてストップすることはできない」だった。全く相反する二つの論理・・・・いずれにせよ何百年起こっていない洪水のために「建設」を主張し、かたやいつおこるかわからない地震のためには「建設」をやめないと主張する。いずれにしてもゼネコンと官僚は「建設」したいのだ、というより建設しつづけなければならないのだ。

 今や、ゼネコンと官僚が最も恥ずかしい職業だろう。ゼネコンは国家建設を意味せず、国家破壊を意味し、官僚は良い国を創造するために存在しているのではなく、国を早期に滅ぼすために存在しているからだ。父親がこれらの職業であるがゆえにその子供たちが学校でイジメにあっているということを寡聞にして聞かないのが不思議なくらいだ。もちろんゼネコンで働くサラリーマンがすべてそうではなく、官僚の中にも「良い」国を作るために「智恵」と「勇気」と「情熱」を持っている人も、少なくない数いるであろうことは想像できるのだが。

 それにしても日本全国で建設関連で働いている人口が55万人であり、その扶養人口まで含めると200万人であることを考えると建設業をいきなり半減させるなど滑稽なことであることが分かる。しかし、このままいけば建設を続け、日本中をコンクリートのビルとダムだらけにしない限りみんな食っていけないことも事実であり、それはそのまま国土破壊が進んでいくことでもある。環境派の意見を取り入れたにしても100年で破壊しつくすところが150年に伸びるだけのことであり、国土破壊を完全に止め、かつみんなの経済性を成り立たせることにはならない。

 そこで

 提言1

 ハコモノ行政ではなく、東京の地下設備の充実にゼネコンのもてる知識と力を注ぐ。その一環として電柱の地下埋設工事を進める。これには大きく3つのメリットがある。1つは、交通安全(視界が良くなる等の理由で)と交通渋滞の緩和。1つは地震、火災時の緊急車両の進入を容易にする。(阪神大震災の時電柱が倒壊し、緊急車両が進めず、みすみす人命が失われたことは記憶に新しい)。残る一つは都市の美観に大きく寄与することである(個人的には最後のメリットがいちばん大きい。街中から電柱が消えた所を想像してほしい!)。このために税金が使われ、その為の道路工事でしばしの間、不便をかこつとしても、住専につかわれるバカバカしさに較べれば何の不満があるものか。まさに安全と環境と経済が鼎立する例となりはしないか?そんなゼネコンではたらくオトーサン(昼間のパパ)は誇り高く美しい。そうでもならないかぎり、今時、不動産業や建設業界に就職しようなどと思う学生が何人いるだろう。魅力のない業種には魅了のない人間しか集まらないのは古来からの常識ではないか。

 提言2

 駅や道路の表示のすべてに英語の表記を付記する。現在も一部英語表記のものもある(高速道路表示や地下鉄のドアの上部あたりにある路線案内図等)が、どれも文字が小さく実用性にかける。国際都市・国際国家をめざすのなら最低それは必要なことであり、看板屋や印刷業者等も経済的に潤うだろう。自分が海外にいった時のことを想起すれば、この事の意義が理解しやすいだろう。

 提言3

 身体傷害者や妊婦等にとって生活しやすい様、駅や公共施設を作り直す。健常者の自分の目からみても不十分に思える。(今度いつか雨の日に、山の手線のどの駅のホームでもいいから、絶対に目をあけずに黄色いツブツブだけを頼りに猛スピードで駅にはいってくる電車を待ってみるといい)。教育課程のなかにそれらハンディのある人の不自由さを疑似体験させる等のカリキュラムを組込む。それも1回こっきりではなく、義務教育期間中毎年1回位。(それこそ「義務」的「教育」である)。現在の仕様は身障者や妊婦からの視点や研究者からの視点が欠けている。それらの人の意見を聞くのではなく、生かすこと。そしてその様につくりかえること。金はかかるが仕方がない。ゼネコンに「塩」を送ってやろう。くやしいが僕らがそれを作り直すことはできないのだから。

 このようにして時間を稼ぎながら、序々にゼネコンや官僚の数を減らしながら、これからの世代の「教育」に、これからの日本をゆだねるしか日本再生の道はないのではないか。

 しかし、教育システムといっても、現在の日本的教育システムではもうどうしようもない。教育の本場であり、教育について古代ギリシャのリベラルアーツ以来の長い伝統のあり、環境問題の先進国であるヨーロッパやアメリカから最新の考え方を検討、輸入し、それを教育できるよう人をまず育てる。科学技術のためにヨーロッパに留学させるのではなく、日本の教育に、欧州の教育の伝統を取り入れるための人材育成のために留学させても良い。

 そのためには英語の話せる人が必要だ。ここだけは悠長なことを言わず、英語会話のための先生達を緊急輸入しよう。そして英文法の時間を会話の時間に変換してみる。このことで職を失う英文法の先生には一定期間給与補償する。

 提言4

 規制緩和と規制強化の分別。

 例: 「食品」

 流通面は一見規制緩和すべき点にみえる。経済的側面から考えれば概ね正しい。資本主義社会なのだから方向はそういくべきである。しかし、「文明と経済」より「環境と安全」を優先して考えるなら食の安全性という面では逆に規制を強化すべき点もでてくるだろう。一瀉千里に規制緩和を歓迎すべきではない。食品の安全性を冷静に判断するための情報の開示がなされるべきである。しかし、国の研究機関に対する不信感は現在ぬぐいがたいものがあるのだから、民間の研究機関も並存すべきであり、この様な民間の研究機関の設立には規制緩和がなされなければならないだろう。そうすれば、この分野に新たな起業需要が起こり雇用の創出もおこるだろう。しかしこの民間機関の情報の信頼性が確立されるまで(国民を犠牲にするような大事件が起こって淘汰されあと確立するというのではなく)は、この機関がでたらめな情報を流さない様監視する機関を設けるべきであり、この機関は司法権力のように国とも民間とも独立した機関であるべきであろう。それがもし公正取引委員会や会計検査院のように国の機関である場合は法律によって完全独立の権限が与えられている必要がある。

 文 章はここで終っている。


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