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ジョットだけよぉ〜〜〜トスカーナはマイナリー?


 ジ ョットつながりで、mixiのお友達が一人増えた。ジョットで日記検索をしたところ「ジョットランデイア」という不可思議なタイトルの日記に行き当たり、そこで紹介されていたとても美しい本(写真左)に見とれていたら急にあることを思いついた。

 ま ずは本のURLはこちらです。

 ジョットランディア Giottolandia のHP
 http://www.giottoli.com/

 この本、実は絵画の本ではない。鉱物、というか「石」の本である。なぜに「石」の本に画家「ジョット」の名が?そのわけは、マイミクさんの日記に書かれて余すところがないので、許しを得てここに掲載させて頂く。

 「 イタリア、フィレンツェに住む妹から本が届いた。妹の夫、つまり義弟による出版されたばかりの写真集“Giottolandia”。20数年前、ふたりは中米グアテマラで出会い、現在は彼の国イタリアで暮らす。

 彼の本職は出版編集業であるが、グアテマラではマヤ伝統技術による手織りマフラーを制作するなど、独特の感性を持っている。彼にとって初めての自作品を扱った本、彼らが20年の間に採集した「石」の写真集である。

 ジ ョットとは中世イタリアの画家の名前。「ジョットランディア」とは「ジョットの地」という意味になる。「石ころ」のことをイタリア語は“ciottoli”「チョットリ」という。まず、これと作者が尊敬するジョットが合わされて新語「ジョットリ」が生まれ、そこからジョットランディアが造語された。

 ある日トスカーナ地方の海岸でふと目にした石、それらにえも言えぬ輝きを見つけたという。以来20年間、ふたりで海岸や川岸で拾い集めてきた。 もとの石の表面は白っぽく干からびたようなので、磨かないことにはその輝きは出てこない。時間をかけて丁寧に磨く。そしてそれは水に漬けてこそその光沢や美しい色を映すことができるという。


 こ れらの石の成分はトスカーナ地方南部の鉱脈Colline metallifereと関係があり、そこを古代エトルリア人が切り開いている。妹夫婦の住むフィレンツェ・トスカーナ地方は、紀元前8世紀頃からローマの共和制に征服されるまでエトルリアの諸都市が栄えていたところ。 エトルリア人は鉄や青銅製品を作り、石造建築にもとても高度な技術を持っていた。ここは鉱物資源が豊富なところだったので彼らによって鉱山が開発されたというわけだ。

 エトルリア文化にはいまだ謎が多く残っているらしいが、妹いわく、この石をながめながら、今も当地に残るエトルリア人の古代の息吹を感じている・・・とのこと。」

 こ の無駄のない引き締まった文章を読んでいて、長年ひっかかっていた疑問がすーっと解けた気がしたのである。

 ルネッサンスは、何もフィレンツェだけに興ったわけではない。アルプスの北方ネーデルランドやフランドル地方(今のベルギー、オランダ、ドイツ)にも興ったし、同じイタリアの水と光の都「ヴェネッツイア」にも興っている。

 北 方ルネッサンスでは、デューラーやホルバイン、クラナッハそれにファン・エイク!ヴェネツィアではベッリーニ、ティツィアーノ、その兄弟子ジョルジョーネ!ティントレットなどミケランジェロ、レオナルド、ラファエロに匹敵する巨匠たちの手になる素晴らしい絵画芸術が生まれている。(ファン・エイクとジョルジョーネはマイ・フェバリットペインターである)

 僕 がずーっと不思議に思っていたのは、何故フィレンツェ(近郊)生まれの芸術家(すなわち、ジョットであり、アルベルティであり、ブルネレスキであり、ドナテッロであり、レオナルドであり、ミケランジェロであり、ラファエロ)たちだけが、単なる画家にとどまらず、彫刻家であり、建築家であり、科学者であり、考古学者であったのか?ということだった。

 デューラーやホルバイン、それにファン・エイク、ティツィアーノ、ジョルジョーネ等はあくまで素晴らしい世紀の大画家たちであるが、大聖堂や鐘楼の設計図はひかなかったし、古代ローマ遺跡の発掘にも興味を示さなかった。それは一体なぜなんだろう???

 と ころで「フィレンツェ」や「シエナ」や「ピサ」などの街がある地方は現在「トスカーナ州」と呼ばれている。ぼくらが訪れた塔の街「サン・ジミニャーノ」も、5時間も迷ってようやくたどりついた「ガイオラ・イン・キャンティ」もそうだ。

 実はトスカーナという地名は謎に満ちた民族「エトルリア人」に由来している。このイタリア中北部一帯はその「エトルリア人」の本拠地・・・・その「エトルリア人」のことをローマ人たちは「エトルスキ」と呼び、その居住地を「エトルスカ」と呼んだ。やがて弱音である「エ」が無声音化し、「トルスカ」、「トルスカナ」となり最終的には「トスカナ」に変化した。つまり「トスカーナ」とは、「エトルリア」のことだったのだ!

 引 用させて頂いた文章にあるとおり、ローマの先住民族「エトルリア人」は、その出自自体も特定できないし、ラテン語やギリシャ語などと全く系統の異なる言語を話していた謎の多い民族だが、紀元前7、8世紀頃から、すでに農業も土木も建築や鉱業においても非常に高度な文明や技術を誇っていた。むしろローマ人は最初は彼らの支配下にあったのである。だがその後したたかなローマ人はエトルリア人の技術や文明を学びながらじょじょに力をつけ、最終的には逆に彼らをその支配下においた。そしてエトルスキはローマ人と同化(つまりは混血)して行き、民族的には消滅してしまう。その歴史の主な舞台が、このトスカーナやそのお隣のウンブリア州(ラファエロの出身地)なのである。

 ということはトスカーナ人の血にはこのエトルリア人の遺伝子がビルトインされていると考えても間違いではなかろう。

 と ころで、なぜエトルリア人は、イタリア中西部、今のトスカーナに居住したのであろうか?いろいろな理由があろうが、実はこの地域に優秀な鉱山が多い、ということもあげられると思う。建築資材や美術工芸品には鉱物が欠かせない。それらを豊富に生産できる場所、それがかれらをこの地に定住させた最大の理由ではなかったか?

 ミ ケランジェロはトスカーナ州の有力都市「ピサ」近郊の「カッラーラ」の大理石の石切り場にいるときに無上の幸せを感じている。ある時彼は「彫刻とは簡単だ。石に閉じ込められたモーゼを鑿一本で救い出せばいいからだ」と言ったという。石を見て、その中に閉じ込められた命を見いだす本能・・・これこそエトルリア人特有の本能だったのだろう。ミケランジェロに限らずトスカーナ人たちは、鉱物、鉱石、大理石に、ほかの州のルネッサンス人に比べてはるかに敏感に感応する能力を受け継いでいた。だからその石材を使う建築や、大理石や青銅による彫刻、鉱物を主原料とする顔料や絵具にあれほど固執したのではないだろうか?

 当 時の画家たちは顔料を調合し、絵具を作る作業から絵画制作を始めなければならなかった。レオナルドが絵具にこだわったあまり、その絵具が流れ落ちたり、剥落したのは有名だ。

 だが、彼は顔料に徹底的に感応し、拘わり研究を続けた。だから結果としてレオナルドは科学者になった。ミケランジェロは画家と呼ばれるのを嫌った、”石” にこだわり抜いた彫刻家であり、サン・ピエトロ大聖堂のドゥオーモの設計も手がけた建築家であった。ブルネレスキは最初は彫金や彫刻をよくしたが、コンテストでギベルティと同点優勝であったことを潔しとせずさっさと建築家になった。ラファエロも建築家であり、かつ古代ローマ遺跡の遺物監督官もつとめた史上初の考古学者でもあった。最初のルネサンス人「ジョット」は画家としての名声は並びなかったが、フィレンツェ大聖堂の鐘楼を設計した建築家でもあった。

 お そらく彼らは幼いときから自然に親しんでいたが、それは動植物だけへの観察にとどまらなかった。彼らは鉱物や大理石という無機物の中にさえ生命を感じ取る特殊な能力を生まれつき保有、丹精し、やがてそれらを駆使して絵画だけにとどまらない様々な彫刻群や建築群を造り上げていったのだ。

 フィレンツェに興ったルネッサンス人が万能の芸術家であったのは、鉱物の中にすら楽々と生命を見いだすエトルリア人の「血」とトスカーナという「地」の両方の「ち」の利を受け継いでいたからではなかったか・・・マイミクさんの文章を読み「ジョットランディア」の美しい石の文様(写真上)を見ていたら急にそう思えてきたのだ。

 あ る時ティツィアーノの絵を見たミケランジェロは「もし彼にデッジョーネ(デッサン力)があったなら・・・」とつぶやいたと彼の弟子ヴァザーリは伝えている。そのあまりに素晴らしい色彩感覚にさしものミケランジェロもたじろいた。ヴァザーリは「もしミケランジェロのデザインにティツィアーノの色彩が加われば、天下無双の絵画が誕生したに違いない」と言いたかったのだろう。

 だが人工的な運河に囲まれ、全く山のない(すなわち周りに鉱山がない)街「ヴェネツィア」生まれのティツィアーノにそれを求めるのは酷というものだろう。またそのことが彼のあの光と陰とあふれ、まばゆい色彩を駆使した素晴らしい絵画群の評価を下げるものでもない。彼にとっては水面に反射する光と陰と色彩こそがすべてであり、「構築?デザイン?そんなものはありませんが、それが何か?」だったのだ。

 「 妹いわく、この石をながめながら、今も当地に残るエトルリア人の古代の息吹を感じている・・・とのこと。」

 僕 がこのHPで紹介されている石の絵模様(写真右)にジョットブルーを見たのも、きっと妹さん同様、エトルリア人の息吹を感じたからだろう。

 妹さんの旦那さんがトスカーナ人なのだとしたら、これらの石に生命を感じとり、それらを取り出したのは少しも不思議なことではない。またその本のタイトルに「ジョット」の名前を冠したのも偶然、というより必然だったのでは?と思えたのである。

 ト スカーナ州・・そこはキャンティをはじめとする銘醸ワイナリーが多数点在する地方としても有名だが、その素晴らしいワインを産み出す葡萄を育む土壌はまた、素晴らしいマイン(鉱物)を産出する豊かな土地「マイナリー」(そんな英語はありません、念のため)でもあったのだ。

 その地でエトルスキたちは、さながら地中のトリュフを探し出す豚さん同様に、否、匂いすら発しない土くれや石ころの中に価値ある鉱物を見いだす能力を涵養してきた。そしてその能力は数百年の歳月を経た後、フィレンツェ近郊に生まれた天才たちによりあらゆるジャンルの芸術文化として突如爆発的に花開いたのである。そしてその能力はルネッサンスから6百年以上を経過した21世紀の今を生きるフィレンツェ人にも確実に受け継がれているようである。

 素 晴らしいトスカーナの「ワイン」と「マイン」で、かんぱぁ〜〜い!


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