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無伴奏〜シャコンヌ

 映 画「マイ・ブルーベリー・ナイツ」のサントラに使われている「夢二のテーマ」(唯一の日本人「続木力」の作品)を聴いていたら、突然14、5年前のフランス映画「無伴奏〜シャコンヌ」のことを思い出した。

 ヒ ョンなことから代役として華々しいデビューを飾った天才バイオリニストの主人公が、コンサートで演奏する意味を見失い、パリの地下鉄構内の無名のミュージシャンや、チケット売り場の女の子との交流を通じて、生きる意味を見いだしていく、というお話。

 こ の映画、僕は劇場で2回観た。パンフレットも買った。その後、VHS(まだDVDの時代ではなかった)がポニーキャニオンから出ていたので、ポニキャンの友人に頼んで社販で購入。CDも輸入盤と国内盤の2種類を購入していた。

 久しぶりに見てみよっと!家捜し・・・だがVHSは誰かに貸したっきりなのかいくら探しても見つからない、トホホ。CDも、もはや邦盤は行方不明で、輸入盤しか見当たらない、ウグググ。もちろんパンフなどあろうはずもない、シクシク(・・・でも、ま、いつものことではある)

 そ こでアマゾンで検索してみたら、なんとVHSは中古良品は一万円から、CDも国内盤は6千円からしかない!ウウウ〜〜トゥー、マッチ、エクスペンスィブ!

 だが、15年も前のことを思い出させるサインは瑞兆に違いない。そういうものは「ご縁」と言うか、何かの「お告げ」であろうから、「素早くインカーネイトするのが吉」と、ことしの正月にひいたお神籤に書いてあった。そこでためらうことなく(ウソです。少し躊躇しましたけど)購入する。

 昨 日届いたので早速映画を観る。14、5年ぶり!

 映画が始まってすぐに、主人公がバイオリンを修理に出すシーンがある。職人が「“魂柱”がズレているよ。こんなになるまで弾くなんて・・・これではいくら弾いても良い音はでないさ」みたいなことを言う。  そうそう、そうだった!バイオリン(というかバイオリン属の楽器)には「魂柱」(こんちゅう)なるものがあるのをこの映画を通じて初めて知ったんだった。

 “魂柱”・・・単なる「支柱」ではなく、「魂」の「柱」!この映画のキーワードにもなっている。

 親 友のソリスト「ミカエル」の演奏会を見にいった主人公「アルマン」は、ミカエルが会場に間に合わなくなったため、急遽彼の代役として舞台に立つことになる。
 ぶっつけ本番でいいから、という劇場主の言葉にあらがい、彼はリハーサルから一緒にやりたい、と言う。突然トラであらわれた無名のバイオリニストに冷ややかな視線を送るオケの団員たち。しかも当日の演目はベートーベンの難曲”バイオリン協奏曲”!だが、なんと彼はカデンツァ(ま、言ってみれば、ロックにおけるギターソロのようなモノ)にシュニトケを弾く!普通はヨアヒムかクライスラーである。ティンパニーまでもが参加する20世紀生まれのシュニトケのカデンツァが演奏されることは滅多にないが、百戦錬磨の楽団員も思わず瞠目する美しい音色とカッコよさ!・・・当然に演奏会は大成功でブラボーの嵐。(クラシックの巨匠たちにはこの手の身代わりデビュー逸話(トスカニーニもそうだった)は多いね)・・・・だが、実は本番で弾かれたのはシュニトケではなく、無難なクライスラーのカデンツァだったのだ。

 思わぬ大成功を喜んだ劇場主はアルマンに引き続き演奏するよう頼むが「シュニトケは扇情的すぎるから遠慮してほしい!」と言う。そんな彼に代表される商業音楽主義に嫌気をさした彼はそれを断り、ほどなくリヨンの楽壇を去っていく。

 1 0年後・・・再びリヨンに現れたアルマンに楽壇は冷たい。それどころか一緒に演奏を楽しんだり練習していた親友ミカエルが自殺したことを知らされる。以前、演奏に行き詰まった彼のためレコーディングを替わったことがある(演奏者名はミカエルのまま、つまり替え玉)アルマンは、再び、生きる意味、舞台で演奏する意味を見失い絶望の淵に沈む。

 映画は、そんなアルマンの華々しい地上の時代と地下にもぐった暗い時代の映像を交錯させながら進んで行く。

 セ ンセーショナルなデビューを飾り、一躍リヨン音楽界の寵児となった彼は、あるレストランで、美しいオペラ歌手のいるテーブルから即興の演奏を頼まれる。そこで彼が演奏するのは、イザイの無伴奏バイオリンソナタ第2番「オブセッション=妄想」。バッハのそれはバイオリンの「旧約聖書」と呼ばれ、イザイのこれは「新約聖書」と呼ばれる。僕はこの映画で初めて、バッハを意識して作曲されたと言われているこの曲を聴いたのだが、もし20世紀にバッハが生きていたらこういう曲を作ったかも知れない、と思わせるほどバッハの力強さとモダニズムを感じさせてくれる本当に素晴らしい音楽だ。

 お決まりのように恋に落ちるアルマンと歌手。だが、バイオリンのことしか頭にないアルマンに苛立ちを覚えるオペラ歌手との仲はやがて破綻する。二人の行き違いを象徴するシーンで演奏されるのはベートーベンの「クロイツェル・ソナタ」

 ミ カエルの自殺に衝撃を受け、もはや表舞台で演奏する意味はないと悟った彼は、パリのチューブ(地下鉄)構内を弾き場所!と定める・・・アメリカは人種の坩堝と言われるけど、州により、街によりその比率は著しく違う。だがフランス、特にパリは、アフリカンもアラブもジプシーもアジアもスラブもみんな混在している。地下鉄の構内はまさにそんな様々な人種によるコンサート会場のようだ。映画では中近東とおぼしき素朴な祈りのような歌、それに哀愁に満ちた胸をしめつけるようなバンドネオンが流れる。アルマンは多くの通行人、様々な国籍のミュージシャンに出会い、その、真心から弾かれ、歌われる力強い音楽に惹かれ、自らの音楽における「魂の柱」を見つけだしていく。

 そ んななか、いつもただで構内に入場するアルマンを見逃す駅の切符売り場で働く女性「リディア」・・・この子が可愛い!2回も劇場に通ったのは、ホントはこの子を見たいから(だってフランス映画なんてめったに日本で公開されないんだもの)でもあった。どこか西アジアが入っていそうな黒髪と大きな黒い瞳(このての顔に(も)弱いなぁオイラ)とつかの間の恋に陥る。突然停電になる地下鉄構内。パニックに落ちいりそうな状況下で、アルマンは人々の心を鎮めるかのように静かにバイオリンソロを弾きだす。落ち着きを取り戻す人々。薄明かりの中に一瞬浮かび上がるリディアの黒い瞳が美しい。

 リディア「・・・ずっとメトロで?」
 アルマン「・・・いや、ずっと地上で弾いてきた・・でも友人のことで打撃を受けた・・・」
 リディア『諺を知ってる?」
 アルマン「何?」
 リディア「 ”過去を見つめすぎると、未来は塩の柱になる”」

 あ るとき、チェリストと一緒に演奏することになったアルマン・・その素晴らしい盛り上がりを見せる音楽に、やがて駅構内の音楽家たちも集まって演奏に加わる。バンドネオン、カスタネット、ビール瓶、ギロ(っぽい)、バンジョーなど様々な音が一つに混ざりあう、それどころか通行人たちさえもその音楽の輪に加わり思い思いに踊りだす、この感動的なシーンはラストシーンと並ぶこの映画のハイライトである。この音楽はウラディミール・メンデルスゾーン(フェリックス・メンデルスゾーンのひ孫らしい。地下鉄構内の停電の時アルマンが弾くのもこの人の作品!)の「ル・ブッフ」!クールというよりヒップでカッコイイ!

 だ が、構内は改装されることとなり、アルマンも居場所を追われる。新たな演奏場所に苦労するアルマン。やっと見つけた場所に私服の警官がやってきて彼に金を要求するが、金のない彼に怒った警官は彼のストラディヴァリウスを床に叩き付けて壊してしまう。呆然とし床に這いつくばってバイオリンの破片をかき集めるアルマンが呻く・・・「魂柱、魂柱はどこだ」・・・やっとの思いで見つけ出し、慈しむようにそれを両手に握りしめるアルマン。だが「魂柱」を見失なわなかった彼は心の中に音楽を聴く!魂の調べが明瞭に聴こえる彼に、もはや現実のバイオリンは不要だ。彼はそこにないバイオリンを、まるでそこにあるかのように弾く(ま、エアーギターならぬエアーバイオリンですね!)音楽が聴こえ続ける限り「コンティヌェ」「コンティヌェ」(続ける、続ける)と呟きながら彼は心のバイオリンを弾き続ける。

 改 装された地下鉄構内は、またそこを棲家にしていた、最下層の人々の ねぐらをも奪っていく。廃駅の奥へ、奥へと追いやられた、行き場を無くした異郷の浮浪者たち、逃げ場を失った若い恋人同志、そしてなすすべもなく死を待つだけの老夫婦。  そこは家族から見放され、社会から見捨てられ、絶望の淵にあってもなお魂柱を失わないものたちにとっての最後のアジール(統治の及ばない避難所、英語で言えば、アサイラム)

 そんなアジールで、ひっそりと息をひそめて暮らす人々の群れに身を投じる落魄のバイオリニスト「アルマン」のもとに彼の元の友人シャルルがやってくる。シャルルは偶然地下鉄の構内で見かけたアルマンをずっと気にかけていたのだ。
 シャルルは、楽器を失った彼にそっとバイオリン(たぶん、親友ミカエルの遺品「アマティ」と愛弓)を差し出す。

 映 画のコーダとでも言うべき最終章・・・アルマンが、薄明かりに水面が美しく揺れるパリの地下水道をゴンドラに乗りながら友人のバイオリンで弾くのは、クラシック音楽の最高峰の一つ、J・S・バッハの「シャコンヌ」!
 メトロ構内に鳴り響く彼の音楽は、それに耳を傾けるアサイラムの住人たちのこころを覚醒させて行く。異郷のダンサーは、アルマンの音楽に合わせて踊り狂う、隠れていた恋人たちはアルマンの音楽に勇気をもらったかの如く再び外に飛び出していく。病に臥せっていた老人は、覚悟ができたかのように安らかに息を引き取り、年老いた妻は涙も見せずに彼の死を受け入れる。そんなラストの15分はまさに圧巻!息が詰まるほど感動的な映像と音楽の融合がそこにある。

 ベ ートーベンには傑作の森があるが、バッハの音楽は宝の山、いや宝の大山脈である。エベレストやK2など数多くの名峰を従えるヒマラヤ山脈のごとく、仰ぎ見るほど高い天空に聳える名作の数々。傑作は数えきれないほどあるが、「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」は、まぎれもなくその一つである。中でもパルティータ2番の第5楽章「シャコンヌ」はその最高峰である。

 映画はその「シャコンヌ」を渾身の力で弾き切り、過去の苦い「塩の柱」を振り捨て、自身の揺るぎなき「魂の柱」の確証を得たアルマンの力強い目のクローッズアップで終わる。

 こ れら圧倒的な感動を引き出したこの映画の音楽監督はギドン・クレーメル。世界的に知られた天才バイオリニストだが、その超絶技巧より、ヒップな解釈が素晴らしく、この映画における感動的な音楽の数々は彼のアドバイスと選曲、演奏(映画はもちろん、当て振り!アルマンを演じたリシャール・べリは6ヶ月間特訓をしたとのことだが、そう言われなければわからないほど、本当に彼が弾いているかのような見事な弓さばきと指使い)がなければ成立しなかっただろう。

 そ れほど、現代的(様々な問題の解決の糸口すら見つからない「現代」を映し出すという意味)で自由な表現をもった音楽で溢れていた。映画は15年前の制作だが、ラスト15分の映像は今と変わらぬ、いやますますひどいことになっている現代社会の病巣を、まるで予見していたかのように、明瞭に映し出している。

 こ の映画を見たあと、サントラ(写真中)を買ったのはもちろんだが、クレーメルの弾くイザイの無伴奏(クレーメルのバッハの無伴奏は持っていた)、それにシュニトケのカデンツァが使われているベートーベンのコンチェルトを買いに秋葉原の石丸電気“クラシック”館に走ったことを思い出す。

 15年ぶりにみたこの映画、いやぁやっぱり良かったなぁ。


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