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ひとはいつ生まれて、いつ死ぬんでしょ?

 昨 日の「ボイン占い」に書いた「ちひろ」ちゃんのお祝いの席は、代々木のお店であった。そこの「あかしママ」が「お祝いに、お誕生リングを贈るから生年月日と生まれたときの体重を教えて!」と「母」となった「ヨシエ」君に話しかけていた。なんでも、生まれたときの指のサイズの指輪の裏に、それを刻んで記念にするのだそうだ。

 そ のときふと、僕らはよく「この世に生を受けて」と言うけれど、それは何時のことなんだろう、と思ってしまった。

 多くの人は「誕生日に決まってるでしょ!」と言うと思うけど、実は赤ちゃんは、お母さんのお腹にいるときから既にこの世に存在しているわけで、ほぼ10ヶ月間お母さんと行動を共にしている。お母さんが、スーパーにでかけてヨーグルトを買う時も、病院に行って「お産の心得」を聴いている時も常に「同行」しているわけだから母親の体外に出る前からこの世に存在していると言えなくもない。カンガルーの親子を想起すれば理解しやすい。

 で は、「この世に生を受けた」瞬間とは、受精の瞬間を言うのだろうか?
 受精とは、卵子と精子が結合することだからそう言えそうな気もしてくる。だが、そもそもその卵子と精子は「いつ、この世に生を受けた」のだろう?卵子や精子を分子レベルで解析すれば、その組成成分を生成する「なにかしら」が体内にあったから、それらが形成されることがわかる。いきなり突然、手品師がシルクハットから鳩をとりだすようにお母さんやお父さんの体内に出現するわけではない。そこでは、「タネ」が、あらかじめシカケられて「いた」のである。

 精 子や卵子を形成する何かの物質があらかじめ存在しているのであれば、それらの形成物質(タネやシカケ)はいつからそこに準備されていたといえるのだろう?

 その母体や父体(そんな日本語はないと思うけど)がこの世に誕生したときからその「タネやシカケ」は潜在的に待機していたのだろうか?

 そうであるとすると、やはり「では、その母体または父体はいつ誕生したと言えるのか?」という設問に行き当たってしまうので、結局は堂々巡りになってしまう。

 そ の堂々巡りな質問を永遠に繰り返していくと、一体どこまで過去時間を遡ることになるのだろう。地球が誕生して45億年、生物が誕生して30億年・・・生物誕生の瞬間、果ては地球誕生の瞬間までたどることになるのだろうか?そしてそこから我々は存在し始めたのであろうか。

 仮にそうであるとしても、その地球を誕生させた物質が宇宙に存在していたからこそ地球が生まれたのだから、その物質がいつ誕生したのか、という疑問はやはり残る。それは宇宙が誕生した瞬間からそこに潜在的に存在していた、ということ?

 そ の場合でも、結局は「では、その宇宙はいつ誕生したのか?」という質問は立ち上がってくる。「それはビッグバンが起きたとき」とはよく言われることだけど、無邪気な子供に「じゃビッグバンが始まる前は何だったの?」と聞かれたら、ホーキンス博士も答えられないのである。

 我々は、無限の過去から存在していて死んだあとも無限の未来に存在し続けるのだろうか・・・

 分子レベル、物質レベルではそう言えるかも知れないなぁ。

 で は、人としては、何時から存在し、いつまで存在するのだろうか?

 僕は亡くなった父と祖父母を脳に記憶していて、その記憶をいつでもありありと取り出すことができるが、曾祖父母の記憶はない。田舎に行くと居間の鴨居にご先祖様の白黒写真が飾ってあったが、お顔は思い出せない。彼らが存在していたから「今の僕」が存在しているにも拘わらず、関心がわかなかった。ましてやそれ以上過去の、写真も何も残っていないご先祖様など知るよしもない。だが、たった三代遡っても、実はそこに14人、4代遡れば実に30人ものご先祖様が存在しているが、僕の中で生きているのはわずかに先の3人だけである。残りのご先祖様は、申し訳ないがすでに僕の中で死んでいる。なぜなら彼らは僕の脳内に存在しない、まさに「無」の存在だからである。

 僕 の脳内に父と祖父母が存在しているかぎり、かれらは今も僕と共に生きている。また甥っ子たち(僕は子供がいないが、妹に3人の男の子がいる)にもそのお爺ちゃんと曾お爺ちゃんと曾おばあちゃんの記憶がある。

 甥っ子たちも、彼らの思い出をいつでも取り出せる。だから彼らは彼らの脳内で生きている。

 死 ぬとどうなるのか、を考えるのは人間の脳だけである。動物は考えない(多分)。彼らは言語を持たないからである。死を感じ、死を恐怖しても、死そのものを考えることはない(おそらく)。だから河を渡るヌーの大群は、仲間がワニに食われても一瞬悲しい顔をするが、次の瞬間は、もうそのことを忘れている。あとで犠牲となった仲間のヌーを思ってみんなでサメザメと泣いたり、友人代表のヌーが弔辞を読んだり、ギタリストのヌーが追憶の歌を奏でる、なんてことはない(きっと)・・・もし太平洋の深海にクジラの墓場があれば、クジラは確かに言葉を持っている。死について考えるには言語が必要なのである。そしてクジラたちも、結局「死」は何であるのか、はわからないだろう。 我々「ヒト」はわからないものは「神」であれ「死」であれとにかく一旦「お祭り」するのを習いとしている。(ひょっとしてクジラたちが「死とは何であるか」がわかっている場合は、お墓がない可能性もあるけれど。そうであれば、クジラは人よりはるかに進んだ知性を持っているなによりの証左となる。)

 言 語を持つ脳は、死をどのようにも考えることができる。まさに人の数だけ、違う死の考え方、捉え方がある。

 僕は、死を考えるのは、人間の脳だから、脳が死ねば、無になると考えている。だが無になるまでは、永遠に生きている。父も祖父母も。

 僕 の脳内で生きている、ということは、僕の脳が死ねば、そこで彼らも死ぬということである。だが僕が死んでも、まだ甥っ子たちの脳内で彼らは生き続ける。そして全ての甥っ子たちが死んだとき、つまり父や祖父母を記憶するすべての脳がこの世から消滅したとき、かれらはこの世から消滅する。そして彼らは分子レベル、原子レベルでの物質的永遠性を獲得する。

  死後の霊魂の存在のことを言っているわけではない。

 僕 の父は、1925年に生まれて、1997年に亡くなった。だが僕の中では、地上に残された僕ら家族を暖かく見守ってくれる、あの世で再び命を授かった永遠の存在である。だが「父は永遠の存在になった」そう考える僕もやがて死ぬ。僕の脳は「永遠なる父」を考えることを「永遠」に停止する。そこで、僕の父も死ぬ。だがまだ甥っ子が生きている。一番下の甥は現在22才。ま、彼が80才まで生きるとすれば、僕の父は、1925年に生まれて甥っ子が死んでその脳が活動を停止する2064年までの約150年間「この世に生を受けていた」と言えるかも知れない。


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