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砂漠に蒼きブルースが吹き荒れる〜ティナリウェンの新作に紅葉す!


 ・ ・・・ち、ちがった!昂揚す!

 ルシンダ・ウィリアムスの「ウェスト」を買った時、渋谷タワーレコードの「カントリー・ブルースコーナー」の試聴機に入っていた一枚。5秒程試聴し、速攻で購入。

 家にかえって聴き始めてすぐ「あれっっっぇ・・これ聴いたことある、というかおととしライブ見てるじゃん、おれ!」
 話 は一昨年の9月にさかのぼる。
 イベンターの友人「H川」と目黒川のほとりでバッタリ!

「M山さん!M山さんにピッタリのライブがあるからさぁ、チケットただでいいから行かない?」と言われた。
「えっ!どんなん?」
「う〜〜ん、とね、コピーは「砂漠のブルースが吹き荒れる!」っていうんだけどさぁ・・」
「ギャハハハハ」

 そんなステキなキャッチコピーを聞いてライブに行かない人がいればお目にかかりたいもんだ、と思ったがそんな人だらけであったらしく、その日の渋谷アックスに観客は100人もいなかったのである。もっともだからタダだったんだけどネ。
 H 川が続けて言う。
「アフリカのマリ共和国というところのバンドなんだけどね。それまで沙漠で拾った動物の骨や木を叩いたりして踊ったり歌ったりしてたアフリカ人が、いきなり西洋人からエレキアンプとギターを貰って狂喜乱舞、まるで初めて砂糖を舐めた未開民族があまりの甘さにいつもより高くジャンプしたかのような、そんな音楽・・」
「ギャハハハハハ」

 まったくよくはわからんが、そんなオモロイたとえ話をされてライブを見に行かない人がいたらお目にかかり・・・それもう言ったか!
 ス テージに現れた彼らを見て驚嘆!まずその衣裳のカッコよさに目を奪われた!

 赤、黄色、黒、それに青の布を身体と顔にターバンのように巻き付けている。砂漠の自由人と呼ばれている(らしい)「トゥアレグ」族の正装だそうだが、なんともカッコいい! 映画「アラビアのロレンス」におけるオマー・シャリフ演じるところのアラブ戦士“マリ”の衣裳といえばおわかりいただけるであろうか・・色とりどりのオマー・シャリフが舞台の上でエレキ・ギター(二、三人いたな)を弾くのである。それに地を這うベースと、大地と直列したかのようなパーカッションが、これまで体験したことのないグルーブを叩き出す。オマー・シャリフだらけの舞台を見てコーフンしないヒトがいればお目にかか・・・・!
 お 〜〜、す、すげぇ・・・常々、最近日本人にはギターやベースは似合わねぇなぁ・・きっと俺達アジア人の誰にも洋服が似合っていないのと一緒なんだろうなぁ、と思っていたが、そんなことではないのだな。別に東洋人だから西洋楽器が似合わないわけではないんだ・・ギターやピアノをなんとか手足化まではできても、皮膚化、いや血肉化できるまで弾ききれる日本人が最早少なくなってきたということなのだろう。だがこのアフリカン達はセイゼイ4,5年しか触っていない電気仕掛西洋楽器を本家本元の西洋人より自分の血肉にして演奏している。そこには先祖を奴隷として新大陸に売り飛ばした西洋人の楽器であることに対するわだかまりもなにもなく、ただひたすら与えられた楽器を嬉々として弾きまくる自由人の音楽がある。
 お ととしのライブは2時間あまりであったが、構成上あまり変化がなかったので前半はよかったのだが後半は少しだれた。ドギモはぬかれたが魂まで抜かれた演奏とまでは言えなかった。

 だが、このCDは最初から最後まで息を抜けるところがない、一瞬たりとも緩みがない。聞き終わるときには汗ビッショリになっていた。

 そして実はギターの咆哮の奥からこえてくるのは、なんとも言えない哀しみの音楽「ブルース」である。
 常 々「哀しみのない音楽はゴミ箱に直行せよ!」と言っていた我が師はこうも言った・・(如是我聞)

「ブルースコードで弾かれる音楽がブルースであるわけではない」

「誰も悪くないのに、悲劇はおこる・・・まともな人間ならその原因を追及しないわけにいかず、考え続ける・・だがいくら考えてもそこには正解もなければ、正しいものと、悪いものとを区別する基準すら何もない・・そのことをひたすら自分に言い聞かせるだけ・・だからだれのココロにもブルースは存在する・・・それをギターで表現したとき、その人がブルースギタリストと呼ばれるのである。」
 奴 隷として新大陸に送られた黒人の歴史は確かに悲劇にジャンルわけされる。だがそれでは一体誰がこの悲劇を引き起こしたのか?と問われて「植民地主義のヨーロッパ列強が悪いに決まっている」「いや、アフリカの黒人を白人に売りとばしたのは、同じアフリカ人の別の酋長だ・・だからやつらの自己責任だ」と言ってみても始まらない。植民地主義はなぜ起こったのか?を問わねばならないし、それがわかったところで、それは一方的に悪いのか?も問う必要も出てくる・・現代だってその仕組みの本質は植民地主義の時代のそれと何も変わってはいないのだし。『僕ら全員だれもが、あらゆる悲劇の加害者であり被害者である』、との視点から演奏される音楽、それが「ブルース」である。
 ブ ルースはギターなくしては語れまい。ジャズピアノはあってもブルースピアノは少ない(もちろんブルースゴコロのあるピアノ弾きが演奏すれば、それはたちどころにブルースピアノに変身するのであろうが)。かれらマリ人が西洋人から提供されたあまたの楽器のうち、とりわけギターに夢中になるのもうなずける・・なにせメンバーのうち4人がギター&ボーカルなのだ・・・とくにリーダーのイブラヒムの弾く、剥き出しの「ダン・エレクトロ」がサハラ砂漠の砂塵を切り裂いていくような演奏は圧巻だ!彼にはディストーションとファズさえあれば、ビンテージギターなど一切必要なさそうだ。
 今 なお、欧米列強の草刈場であるアフリカのサハラ砂漠の遊牧民「トゥアレグ」族の音楽は彼らが意識しようとしまいと「ブルース」になってしまう。ちなみにこのトゥアレグ族の民族衣裳の正式な色である「青」を「風の谷のナウシカ」のテーマカラーにしたのが、かの日本の天才!宮崎駿である。天才の見通し力には脱帽である。

『木々を愛で虫と語り風をまねく鳥の人。
その者青き衣をまといて金色の野に降りたつべし。
失われた大地との絆を結ばん。』〜from「風の谷のナウシカ」コミック版
 ア ルバムタイトル「AMAN IMAN」とは「水こそ命」という意味だそうだが、砂漠に生きる放浪の部族の言葉ゆえに説得力がある。少なくとも「自らも加害者である」との視点を欠くアール・ゴアの「不都合な真実」より真実味がある。

 そして最後に、このCDを「ワールドミュージック」にカテゴライズせず、「ブルース・カントリー」にカテゴライズしてくれた渋谷タワーレコードの仕入れ担当員の眼力に感謝する!アリガトね!

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