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NHKへの放送命令〜ジャスラック誕生にまつわる黒い罠

 つ いにNHKに対して放送命令がくだされた。「北朝鮮拉致事件」を積極的に放送せよ!という「ご命令」である。

 このことと、ジャスラックが日本に誕生した理由が密接に係わっていることをご存知だろうか?・・ご存知ない!
そうでしょう!そうでしょう!
だって、これから、ぶらきぼうが初めて言うことですから。
 そ もそも日本に音楽著作権管理団体ができたのは、1931年に一人のドイツ人が日本にやってきたことに端を発します。その人の名は「ウィルヘルム・プラーゲ」。このプラーゲさんが日本に大旋風をまきおこすのです。
 黒 船来航により無理やり開国させられた日本は、不平等条約の解消に頭を悩まします。不平等でなくなるためには、どうすればいいのか?そのためにはまず近代国家に生まれ変わらねば!でも近代国家とは何?それは先進諸国から近代国家にふさわしいと認められる法律体系を保持する国家になることに他ならない。そして欧米から近代国家と認められるためには、法体系の範疇が、経済や刑法のだけにとどまってはならず、文化を保護する法律をも保有することが非常に重要なポイントなのである(欧米かっ!)。ところが文化を守るなんて考え方がそもそもない。もちろん著作権なんて考え方はだれも思いつかない。ようやくヨーロッパ留学から帰国した福沢諭吉が「版権」という概念を考えついたのが明治20年、そして明治32年にようやく日本初の著作権法が成立するのである。
 と ころが確かに著作権法は成立したが、日本人のだれもそんなこと知らない。人様が作った音楽を利用するのにその権利者にお金をはらわなければならない、なんて考えは上から下まで、殆どない。タダで使って当たり前。ラジオだって、音楽を使ってやっているんだよ、ぐらいの考えが普通だったのだ。我々日本人は、お隣の中国のことを海賊天国で違法コピーだらけで困った国だ、などとしたり顔で言っているが、なーに日本だって少し前まではそうだったのである。
 そ こへ1931年プラーゲ先生が、ヨーロッパの著作権者の代理人としてやってきて、著作権使用料を払わない利用者を相手取って、片っ端から訴訟に持ち込んだので、さぁ、大変!しかもその請求する使用料の金額もべらぼーに高いうえに、取り立てもきびしく、おかげで当時唯一の放送局であるNHKのラジオ(当然テレビはまだない、だから民放もない)から洋楽曲が数年間消えたほどなのである。
 と ころで、NHKは当然に政府に陳情する。「あのプラーゲを何とかしてください!そうでないと、国民が聴きたい音楽が放送できません!お願いしますだ!代官様!このとおりでございます!」と頭を下げまくったわけですね。
 そ して日本政府がとった手段がすごいです。
1939年、日本において著作権の仲介を業とするもの(まさにプラーゲさんがやっていること)は、日本政府が認めた機関のみに限るという「仲介業務法」なる法律を成立させたのです。つまり、「政府が認めた機関以外には音楽著作権の仲介業務はさせない!」ということにしたわけですね。しからば、ということでプラーゲさんは日本政府に「認可」を求めました。もちろん許可されませんでした。当然ですよね、もともとプラーゲを締め出すために作った法律なんですから。あわれプラーゲ先生は1941年にさびしく横浜から帰国を余儀なくされました。嗚呼!
 と ころが問題はそれではすみません。仲介業務法には、国が認めた機関が必要になるのですが、そんな機関は実は存在していなかったのです。そこで急遽、音楽著作権の仲介業務団体を作る必要があり、泥縄式に無理やり作られたのが、今のジャスラックの前身である「社団法人大日本音楽著作権協会」というわけです。
 こ こで注目してほしいのは、仲介業務法が成立した年です。1939年!すでに日本は国をあげて戦争に向かって(国家総動員法が発効し、国民徴用法が成立した年でもある)いました。戦争を粛々に進めるために必要なもの、それは情報管理です。当時放送メディアはNHKラジオだけしかありません。新聞はもとより雑誌はもとより、放送局だけ政府の支配下におさめれば、自在に情報管制ができる。そう考えていた平沼騏一郎内閣にとって、「プラーゲを何とかしてけろ!」と泣きつくNHKは「飛んで火にいる夏の虫」に見えたことでしょう。そうしてNHKに多大な恩を売った日本政府はNHKを自在に操り、プラーゲがすごすご帰国したまさにその年(1941年)真珠湾奇襲を試みるのです。NHKラジオから流れる「我が軍大勝利」のニュースに日本中が狂喜します。すべての日本人が何の疑いもなく「大本営発表」を受け入れた瞬間です。

 実はこのときからずーっと、今に至るまで、政府とNHKとJASRACは、ズブズブの関係にあるわけです。
 と ころで、2005年の暮れに「NHKの番組改編問題」が起こったことを記憶されているかたがどれだけいらっしゃるだろうか。

 事件の顛末を思い出していただくために「NHK番組改変問題」にかかる以下のHPからの引用してみる。
http://www.akashic-record.com/y2005/ldpvsa.html#01
http://www.azusawa.jp/genron/nhk-03.html
 「 2005年1月12日、朝日新聞は朝刊1面で「2001年1月のNHK教育TV『戦争をどう裁くか(2)問われる戦時性暴力』の放送前に、自民党の安倍晋三官房副長官(現幹事長代理)と中川昭一衆議院議員(現経済産業相)が松尾武NHK放送総局長(現NHK出版社長)に会って同番組の内容を変えるよう圧力をかけ、それを受けてNHKは編集段階で同番組を大幅に改変した」と報じた。

 また13日には、同番組を製作した長井暁プロデューサーが記者会見し「圧力があった」と訴えた。長井は2004年12月「番組編成の自由を定めた放送法第3条違反」として、NHKの内部告発窓口「コンプライアンス(法令順守)推進委員会」に調査を要求していたのだが、1月19日、同委員会は圧力はなかったとの結論を出した。

 安倍、中川、松尾はいずれもそのような事実はない、とマスコミを通じて否定した。とくに中川と松尾が会ったのは番組の放送後だった(と中川は言う)。

 これに対して朝日新聞は1月18日付朝刊で特集記事を組み、報道の根拠なる録音テープなどを公開しないまま「12日の記事は真実」と再反論し、NHK側もまた反論を繰り返したため、事態は朝日対NHKの泥仕合に陥った。

   朝日新聞社は、NHKの番組改変に関する1月12日付朝刊記事について、 「最初の記事相応の根拠とする見出し」を立てるとともに、「詰めの甘さ反省します」と題する秋山耿太郎社長コメントと、 中川昭一氏(現農水相、前経産相)が前日面会したか、中川氏、安倍晋三氏(現官房長官)が、NHK幹部を呼び出したか否かについて、 「不確実な情報」を含んでいたとする「朝日新聞社の考え方」を2005年9月30日に発表した。 (同紙10月1日付東京本社版朝刊1面及び14面)

 この発表は、最初の記事以降、政治家、NHKと朝日新聞の間に続いてきた確執に一応の決着をつけたように見える。」
 こ の事件は2005年前半の最大の政治的事件であった(筈)なのだが、2005年4月にJR福知山線の脱線事故が起こり、いつのまにかこの話題はマスコミから消えたので、言われるまで思い出さなかった方が多いと思うが、この問題がおきたときの政治家二人の名前をもう一度ご覧いただきたい。安倍晋三現総理大臣と中川昭一現自民党政調会長である。そしてこのときの内閣(第二次森内閣)の初代官房長官(愛人スキャンダルですぐ辞任させられたけど)が、現内閣のもう一人の「中川」秀直幹事長その人である。
 ま さにあのときの番組検閲騒動の主役を演じた閣僚が主要メンバーを構成している安部晋三現内閣によってNHKに対する放送命令が下されたのである。NHKがさしたる反抗もしめさず、唯々諾々と従ったのも、むべなるかなである。やれやれ。
 不 払い運動に悩むNHKが放送受信料の支払いを義務化したい欲望を持っているかぎり、また放送が許認可事業であるかぎり、NHKに公平中立なマスコミ報道など望み得ない。
 N HKが信じられなくとも、民放があるじゃないかって?
民放とて電波法の支配下にあるし、それよりなによりスポンサーの支配下にあるかぎり、別の言い方をすれば「電通」の支配下にあるかぎり、これまた国民の立場にたった報道など到底ありえない話である。その証拠にこの放送業界にとって重要きわまりない(筈の)問題をつっこんで取り上げる民放は1社とてない。
 日 本放送協会と日本音楽著作権協会。ともによく似た名称を持つこの2団体は、戦争を粛々と行ないたい日本軍がその情報をコントロールしようとして利用した機関(NHK)であり、かつ設立した機関(JASRAC)なのである。
 だ から、その体質はとてもよく似ているのである。

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