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著作権法ってだれのためのものでしょう?:後編

 そ もそも著作権法が「発展させよ」と懇請する「文化」とは何か?
 「文化」とは「豊かさ」の別称であり、その「豊かさ」は、「多様な選択肢」のことに他ならない。

 ここに、寸胴鍋いっぱいのカレーと、バケツいっぱいのライスがあって、「好きなだけ食べていいのよ」と言われても、そんな食卓を、誰も「豊かな」食卓とは呼ばない。タマゴ焼きがあり、焼き魚があり、サラダがあり、肉ジャガがあり、どれから食べようか迷ってしまうような食卓を「豊かな」食卓と呼ぶ。日本人のだれもが前者の食卓の待つ家庭より、後者の食卓が待つ家庭に生まれたいと願うだろう(たぶん)。
 音 楽文化の豊かさは多様なミュージシャンの多彩な個性によって担保されるのであって、決してレコード会社の多様性によって担保されているのでない。第一、日本のレコード会社は多様化していない。もはやわれわれの耳は、音楽を一聴して「おー、これはソニーの音楽だ!なんて素晴らしい!」とか「やっぱり、この音はビクターならではだ。さすが!」と判別することはない。「おー、これはヒートウェイブの音楽だ!なんて素晴らしい!」とか「やっぱり、この音はザ・ブームならではだ。さすが!」と、あくまでミュージシャンの違いによって判別するのである・・・当たり前だが。これといって特徴のない、換言すれば多様化しないレコード会社がこれほどたくさんある必要はもうない。そんなものは、言うなれば、皿数は多いが、どの皿にも、同じカレーライスが盛られている食卓と同じことだ。「どれでも、好きなお皿を食べていいのよ、ボク!」と言われても、「ボク」はちっとも嬉しくない。

 レコード会社の数がどれだけ少なくなろうと、日本国民の誰も困らない。だが、多様な嗜好に答えうるミュージシャンが少なくなると、日本国民が困るのだ。豊かな選択肢を奪われることを喜ぶ日本人がどれほどいるというのか。

 ソ ニーの主張とわれわれの主張のどちらが「日本国民にとって“より”文化を享受できるか」あるいはどちらが「公正な利用に“より”留意しよう」と主張しているのか?どちらの主張が「もって文化の発展に“より”寄与せん!」としているのか・・・言うまでもない!
 ソニー側からの答弁書には権威ある法律学者の意見書が添付されているが、この、「著作権のそもそもの目的」論に立脚した解釈論は一つもない。そんなものはくそくらえ!である。

 ぼくらの言い分は、著作権法のアルファでありオメガである第1条「目的」に全くもって合致していることを、主張していくことが勝訴への近道であると信ずる。
 ま たご存知のように、日本の著作権法は、著作権と著作隣接権の二つにわかれていて(他には、ヨーロッパの大陸がそうであるが、アメリカとイギリスは著作権のみである。)、著作権の方が保護が厚い。

 これは、最初に著作物(音楽でいえば楽曲)がないと、何も始まらない(これは、たとえ美空ひばりさんといえども、服部正先生や古賀政男先生の書かれる名曲にめぐりあえなければ、その類いまれな歌声も宝の持ちぐされになる)ことからも自明のことである。逆に言えば、どんな名曲もそれを歌ったり、演奏して“実演”してくれる実演家(アーティスト)がいて、初めてその楽曲の素晴らしさが、世の中に広がって行く。でも、ひばりさんの歌声は、その場で聴いた人以外は、耳にすることができない。そこでその実演をレコードに固定すると、その複製物であるレコードを購入すれば、たくさんの人がその楽曲の良さを知ることができる、というわけである。さらにそれを放送で流せば、地球上のどこでも耳にすることができる。
 従 って、その流れをチャート化すれば、人類が誕生するまでに必然的順序(単細胞生物→植物→魚類→動物→ヒト)があるように、

 著作権(楽曲)→著作隣接権その1(アーティストによる実演)→著作隣接権その2(レコード制作者)→著作隣接権その3(放送事業者)

 という順番になる。
 だ からこそ、著作権法第4章「著作隣接権」は、最初に「実演家の権利」が置かれ、その後に「レコード製作者の権利」が続き、最後に「放送事業者の権利」が置かれるのである。これは、そのまま、著作権に「隣接」する順序に沿って・・・誤解をおそれつつ言うと、重要度の高い順番に沿って法律が書かれていることを示している!間違っても「レコード製作者の権利」が「実演家の権利」に条文的に先行することはないのである。この順番は重要な意味を持つ。決して順不同なのではなく、順不動なのである。その意図は上記で充分ご理解戴けると思う。
 そ こで、今回の訴訟案件・・送信可能化権はレコード会社、はたまた実演家に存するべきや?という話題に戻ろう。

 現在、どのレコード会社も、ジャスラックやJRCにCD1枚あたり、定価の6%を支払うことに異議を唱えてはいない。これは、あれほどアーティストの印税を押さえ込もうとしているメジャーレコード会社の行動規範からすれば不思議なことだ。でも考えてみれば、「著作権使用料を支払うのは当たり前!だって楽曲がなければそもそも、レコードなんてできないじゃん」という考え方がレコード会社側に底流しているからである。そこ(コピーライト)は「絶対」必要なコストであると認識しているということである。
 こ こで、先程の順序を考えてほしい。レコード会社の登場場面は3番目なのだ!一番目(コピーライト)の重要性はもちろんだが、2番目、つまりアーティストという楽曲の伝達者の実演がなければ、やはり「レコードなんてできない」のである。
 いくら潤沢な制作費を準備しても、いくら立派なレコーディングスタジオを用意しても、アーティストがいなければレコード会社なんて陸に上がったカッパ同然なのである。これはレコード会社から見ると、楽曲のコピーライトがイニシャルコストであると同様に、アーティストにかかるコスト(公正な印税を考案することのみならず、アーティストの権利を公正に認めること)も「絶対」必要なコストであるということを意味している。
 何 度も言うが、ここ(アーティスト)が「いなくなる」と、そもそもレコードは作れないのだ。
 「いなくなる」ということは、それでは食っていけないので、そこを目指すものがいなくなり、やがては絶滅する、ということである。このままでは、アーティストは「絶滅危惧種」として早晩レッドデータブックに掲載されることであろう・・・ククククッ(←笑っているのではない、泣いているのだ!)

 さて、絶滅すると何が困るのか?

 繰り返し言うが、日本国民が大いに迷惑するのである。アーティストがいなくなればレコードは作られなくなるのである。立派なスタジオだってゴーストタウン化するしかない。  レコード会社が、あくまでおのれの権益、利益、効率的経費回収のことだけを考え、すべての権利はレコード会社にある!と主張し、権利の囲い込みに奔走するのであれば、やがてアーティストという日本のレコード文化や音楽文化の担い手が絶滅するのである。
 そ れでは、まったくもって文化の発展に寄与できないのである。

 これって、実は重大かつ明白な「著作権法の目的」違反ではないのか!

 言っておくが、著作権法違反は、立派な刑事罰なのだよ。そのことをメジャーレコード会社の社長さん方は、どれほど認識されているのであろうか、はなはだ疑問である。

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