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著作権法ってだれのためのものでしょう?:前編

 実 は、天下のソニーレコードを相手取って、一介のロックミュージシャン「ヒートウェイブ」のリーダー「山口洋」氏が、裁判を起こしている。
 要点は、こうだ。

 世の中は、CDというパッケージから、ダウンロードで音楽を楽しむという時代へ急速に傾斜しつつある。そのこと自体には何等の問題もない。
 だが、ご存知の方もいらっしゃるかも知れないが、その場合(つまりDLのことね)アーティストに支払われる報酬(印税といわれるものね)は、なんとCDと同じ料率なのである・・
 「 えっ!それが何か問題でも?」

 「・・だって、DLにはプレス代もジャケット代も、返品もなにもないんだよ・・CDにおけるアーティスト印税が長きにわたって1〜2%という低廉な料率にとどめおかれていることについて、レコード会社は、上記のようにCDパッケージ制作における原価構成上やむを得ないのである、という説明を繰り返してきた・・では、それらと全く原価構成の違うDLは?・・「新しい酒は新しい革袋に」というではありませんか!お代官様!是非ともCDとは根本的に違う印税率に設定し直していただくわけにはまいりませんか?・・・そう言いたくなるでしょ?もしそうしていただけないのなら、私の歌や演奏をDLさせることについて考えさせていただくわけにはまいりませぬか?お代官様!・・・そう言いたくなるでしょ?」
 と ころで、山口氏がソニーとレコーディング契約を交したのは1989年のことである。つまり、そのときには未だ音楽を配信によってダウンロードする、なんてことは双方ともに意識していない時代の契約である。その何よりの証拠に、契約書のどこをみても配信(DL)における印税率なんてものは記載されていない。

 なので、山口氏は、契約当時想定されていないことまで、権利を譲渡した覚えはない、という主張をしているわけです。ましてや合理性のない印税率で一方的に配信されるのは承服しかねる、とこう言いたいわけですね。
 と ころが、レコード会社は、専属契約における「アーティストが保有している、または将来保有する権利は、すべてレコード会社に帰属する」という条項を盾に、強引にCDと同じ料率を支払うことでDLを続けたいわけなのですね・・そこで、山口洋という一介のミュージシャンが、「ソニーさんよ!そいつぁ、ちぃーっとばかし、話のスジってぇもんが違うんでねぇのかい?」と天下のソニーに「待った!」をかけた、というわけなのです。

 まさに、巨像に挑む、蟻サンの図・・しかもたった一匹で。
 そ こでそもそも、著作権法はだれのためにあるのか?ということを、この事案を視座として、あらためて考えてみたのである。 以下が、この事案をウォッチしている不肖「ぶらきぼう」の考えである。

SONY vs 山口洋 訴訟の本質
〜そもそも日本の著作権法はだれのものか?〜
 著 作権法のそもそもの存在理由を指し示す第1条「目的」・・・これはいわば、憲法の前文にも相当する最も重要な条文である。

著作権法第1条「目的」

 《この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し、著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与することを目的とする。》
 こ の現行著作権法の生みの親である加戸守行氏の書かれた著作権法逐条講義四訂版のP13〜P14にはこう書かれてある。

 「・・・そこで、本条が何を書いているかといいますと、「著作者等の権利の保護を図」るということが、この法律の目的とする第一前提となるものでございます。それから、著作者等の権利の保護を図る図り方としましては、「これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ」という言葉がございますけれども、いわゆる公共の福祉、国民が著作物を利用するものであって文化の享受者であることを念頭において権利の保護を図りなさい、という意味で保護の仕方に規制を加えております。

 具体的には、著作権の制限規定とか、あるいは著作物の裁定による利用とかいう形であらわれてきますけれども、あえて申し上げますと、そもそも権利の内容をどういう形で定めるか、あるいは権利の保護期間をどの程度に定めるか、そういう点につきましても、当然この公正な利用に留意しつつという要件がかぶってくるわけであります。

 結局、「もって文化の発展に起用することを目的とする」というのが大目的でございまして、この法律の究極の目的とするところは、文化の発展に寄与するということにあるわけでございます。つまり、著作権制度を確立する趣旨といいますのが、著作者の経済的あるいは人格的な利益を確保することによって、著作者等の労苦に報いる、その結果として、よりすぐれた著作物即ち文化的な所産ができあがっていくことで、文化の発展に寄与することになる、そういう考え方でございます。」
 長 々と引用したが、要するに加戸さんは、著作権法の解釈にあたっては「文化の享受者は日本国民である」ということを常に念頭に置き、「この法律の解釈にまぎれが生じたときは、すべからくこの本質(どちらの解釈を支持する方が日本国民がより文化を享受できるか)に立ち返れ!」と言い、また、もう一つの本質は「公正な利用に留意せよ!」であると続け、そして最後に「もって文化の発展に寄与せよ!」と結んでいるのである。
 ま た、多くの人が解釈を誤りがちであるが、著作権法において「著作者の権利の保護を図る」のは、その目的ではなく、手段ということである。もう一度よく加戸さんの解説を読んでいただきたいのだが、「著作者等の権利の保護を図」るということは、この法律の第一前提となる、とは言っているが、決して第一目的である、とは言っていないのである。究極の大目的はあくまで、「もって文化の発展に寄与する」ことであり、そのことによって「日本国民が文化を享受できる」ようにすることは、著作権法という法律の上位概念である日本国憲法第13条にいう「日本国民が幸福を追求する権利」に適っているのである。あくまでもその大目的に合致する範囲内においてのみ著作者等の権利が守られるという限定条件つきの法律であることを忘れてはならない。 
 で あるから、やみくもに一レコード会社、一実演家の権利を守ることは、この法律の目的とするところではない。今回の訴訟も、どちらに送信可能化権があるか、の是非を問う法律解釈論にその本質があるのではない。また、実演家が弱者で、レコード会社が強者だから、弱者を救済すべきである、という情実論でもない。本質は、どちらの主張が「より」文化の発展に寄与するのか!?その一点である。

   ・・・以下後編に続く

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