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イタリアはいつでもアタイのあこがれよ〜 とシューベルトが言ったかどうかを赤塚不二夫は知らない。
 先 月、始めて水戸市に行った・・あの大関「水戸泉」の出身地ね・・といってももう知らない人の方が多いだろうが。
 水戸芸術館コンサートホールでの定期演奏会に、配偶者の親戚の方が出演されるので、見にいったのである。演目は、シューベルトの「イタリア風序曲」一柳慧の「フルートと弦楽アンサンブルのための「汽水域」、それにメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」である。
 そ こでパンフレットを貰って読んだのだが、シューベルトのイタリア風序曲についてとても面白い(と、思ったのは僕だけだろうが)ことが書いてあった。
  要 約すると
「シューベルトの生まれたウィーンはその折々に熱狂的に流行するものがあった。その一つがイタリアの作曲家ロッシーニのオペラであった・・「ふむふむ、そーでしょう、そーでしょう!」「ほいで?」・・・「シューベルトは彼の前の時代の作曲家のように聖職者や貴族や王族に仕えて職をはむのではなく、当時台頭しつつあった市民階級(ブルジョワジー)の音楽の趣味と興味を大いに気にかけていかねばならないフリーランスの作曲家のサキガケであった」・・ふむふむ、そーでしょ、そーでしょ。で!驚くべき記述は、次である。。
  「 ・・・・本日演奏される「イタリア風序曲」には1816年にウィーンで上演されたロッシーニの「タンクレディ」のアリアの一部が展開部を持たないソナタ形式で書かれた主題の再現部に用いられている」とあるではないの!「そ、それが大層な問題ですか?」「あたりまえでんがな!」つまり、今でいえば、シューベルトは、ロッシーニのおいしいところをパクった、ということなのだよ。服部克久先生と小林亜星先生のドロ沼の盗作騒ぎや、Pe’zの「大地讚頌」の編曲騒ぎなど、どこかに吹っ飛びそうなくらい、すごい話ではないか!ウィーン市民が誰でも知っている大作曲家のロッシーニの作品を、これまたウィーンの新進気鋭の若き作曲家が、翌年堂々とパクったのですぞ。ところが、というか、もちろん、というか、盗作騒ぎなんて起こらなかったのだ。逆にヒットし、ロッシーニ先生は?と言えば、慌てず騒がず文句一つ言わなかった(小林亜星先生や大地讚頌の作曲家先生とはエラい違いだね)のである。
  「 でもそれって当時は著作権の考えがなかったからでしょう?」「そう、そうなんよ。」つまり、そんな考えがなかったからこそ、このシューベルトの傑作が生まれたワケです。
 著作権で保護されている権利には様々なものがあるが、この「イタリア風序曲」パクリ問題を当世風著作権問題で語るとすると争点になるのは、著作者人格権の「同一性保持権の侵害」というところである。

  実 は私「ぶらきぼう」は、かねがね、この同一性保持権は、文化の発展を阻害することがあるのではないかと思っているのです。もちろん、苦労に苦労を重ねてようやくでき上がった作品の内容を、他人に勝手に改変されたらたまったもんじゃない・・だから、著作者の人格を尊重して、その作品の「同一性」を変更する行為は、著作者人格権の侵害にあたる、とういうことはよぉっっっっく理解できるところだ。だが、それでもなお、誰が見ても、作者の名誉声望を損なうと思うような改変は、以ての外の大厳禁行為だとしても、そうでない限り、一度公表された作品は、その後、誰でも改変できるとしたほうが、むしろ面白いことが起こるのではないか、と思ってしまう。

 少 し話が古くなるけど、1996年、突如、赤塚不二夫さんの「天才バカボン」のパパの顔に、長谷川町子さんのサザエさんの髪形を組み合わせた「天才サザエボン」なる、とんでもないキャラクターが大阪に現れたことを記憶されている方も多いと思う。このいかにも関西人のツボを直撃した商品は爆発的に売れ、マスコミでも取り上げれられ話題になる。こうなると当然、長谷川町子さんと赤塚不二夫さんらの著作権者が黙っているはずがなく、「著作権(複製権)と著作者人格権(同一性保持権)を侵害している」として東京地裁に訴えをおこす。これに対し、このキャラクターを作った会社は「大阪特有のギャグ、パロディ文化から生まれた新たな著作物であって、著作権の侵害にあたらない」と主張した。が、結局東京地裁は原告側の訴えを認め、一連の商品の販売を差し止める仮処分を決定した。で、被告側は当然東京高裁に控訴したかと思いきや、しなかった、いやできなかったのです。実は、その会社は、類似品がものすごい勢いで出回ったせいで、判決が出る直前にあえなく倒産していた、というオチがついている。実に残念。個人的には最高裁まで争って欲しかった。なぜかというと実は、パロディに関しては、「マッドアマノ事件」なる著作権法廷闘争の中でチョー有名な判決があるのだが、この判決が実にパロディ側に不利な判例になっていて、この判決のおかげで日本のパロディ文化は表向き現実的にはできないことになってしまったからである。個人的には、「この判決は希代の悪法ならぬ悪判例である」と思っていた(いる)からである。
  だ って、おもしろいでしょ!天才サザエボン・・ありそうで、なかなか考えられないアイデアですよ。いわゆる「きもかわいい」系だもん。大阪の女子高生が飛びついたのがよくわかる。でも最高裁の判事に言わせれば「それは著作権法違反だから、やっちゃいけんのだよ!君たち!わかってるね?あ?ん?」ということなのだ。芸術には寛大なお国のおフランス・・その著作権法には、「パロディは著作権法違反ではない」と堂々と書かれているのとは大違いである。所詮日本の著作権法なんて、フランスやドイツなどのヨーロッパ大陸系の著作権の考え方をパクってるんだから、どうせならそこまでパクれよ!
  ま たフランスやドイツの著作権法とはまったく違う著作権法の考えをもつアメリカ(だって米国著作権法には著作者人格権の考え方が取り入れられていない・・だから当然、同一性保持権なんてものもない!)でさえ、「フェアーユース」という考え方があり、簡単に言えば、どんな使い方でも「フェアー=公正」であると判断されれば、オッケーという考え方がある。もちろんフェアーかどうかは、度々アメリカ連邦最高裁まで持ち込まれて争われるけれど。
  パ ロディと盗作の一番の違いは何か?盗作はネタ元をばらすことはない。だから悪質と言える。でもパロディの基本はネタバレなのだ。誰が見ても、サザエさんとバカボンのパパが堂々と合体していることくらいわかるのである。だから笑えるのである。たしかに黙って使っていることにかわりはない。でも、真正面から「サザエさんとバカボンのパパを合体させていただけますか?」と言ってもおそらくムリだっただろう。絶対ムリ、と書かなかったのは、長谷川さんの遺族はまだしも、日本の天才ギャグ漫画家「赤塚不二夫」さんは、このしゃれが通じる可能性はあったのではいか、と思うからだ。事実、その数年後、ポケモンとバカボンパパが合体した「ポケボン」なる合成キャラが出回ったとき、赤塚さんはまたもや怒った・・が今回は著作権違反に怒ったのではない。「ポケボン?・・なんてセンスのないネーミングなのだ!僕なら「バカモン」にする!」と怒ったのである。ハハハハ・・さすが赤塚巨匠!だから高裁、最高裁と行くあいだに、赤塚さんだけは降りた可能性があったと思うのだがどうだろう。。
  そ もそもサザエボンというキャラクター商品があるがゆえに、本来のサザエさんやバカボンパパのキャラクターグッズの売上が落ちたり、誰かがサザエさんやバカボンパパと間違ってサザエボンを購入することがあるだろうか?経済的なダメージを長谷川さんや赤塚さんに与えているのだろうか?サザエボンの存在が、バカボンパパやサザエさんのキャラクターの価値を貶めることがあるのだろうか?
  も し、天才サザエボンはパロディではなく、ましてや高尚な批評精神のもとに創作されたオリジナリティあふれる新たな著作物ではない!人の労作の上に立ってようやく完成した作品に便乗して安直なビジネスをするのは許されない!というのなら(確かにそのとおりなんだけどね)、最低限のキャラクター使用料を設定して、お金を取ればいいじゃないの。。
 そもそも諧謔の精神、風刺の精神、滑稽化の精神に基づくパロディスピリッツを基層としている筈の漫画家が他人のパロディを禁じるということ自体「なんだかなぁー」なんだもん。

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