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俳優にはできるが、ミュージシャンにできないこと

 そ れはNG集を出すことである。 いつのころからか、テレビ番組の改編期には必ずといっていいほど、新番組の「NGシーン」が登場する特番が出現するようになった。また、最近ではレンタルビデオはDVDへ移行しつつあるが、メイキングオブとともにNG集がついているのもある。“モンスターズインク”では、アニメのキャラクターが「わざわざ」NGを出していた。

 こ れってありなの? 音楽業界では、絶対ありえないことなので、不思議な感覚にとらわれる。あまたあるテイクの中から細心の注意を払って一点の疑問もない、まさに完全なパッケージを作るのに日夜死ぬ思いをしているので、完ぺきじゃない!との判断のもとに泣く泣く捨てられるテイクをNG集と銘打って世に出す、ましてや値段をつけて売るなんてことはない。むしろ、一般の日本人的感覚としては、1年に一度くらい、針供養やウナギ供養ならぬ没テイク供養をしたいくらいだ。
 実 は、世にCDがでるのは簡単なことではない。いや、簡単だ。どっちだ?どっちでもある。何がいいたいんだ?

 JISマークとインディーズについて語りたいんです。
 J ISマークって、あのJISマーク?そう、あのJISマーク!・・日本工業規格と訳される。消費者から見ると、このマークがあれば一安心。製品が安全であるとの信頼の証。このお墨付きを貰うためにいわゆるメーカーは必死になるそうです。これは一般に工業製品に付されるもので、音楽そのものには付いてない。正確にいうとJIS規格のプレス工場で製造されたCDには付いてますが、それはCDの盤質そのものであって、中身である音楽についてまで安全を保障するものではない。

 「んなこたぁ、あーた、あたりまえでしょうに」
 「音楽がキケン?音楽が人に危害を及ぼすとでも?どういうこと?」
 う ーん、上手く伝えるのは難しい。でもあるんですよ!音楽の中身にもJISが。

 たとえばジェットコースター・・「100回のうち1回しか事故はおきません」・・そんなジェットコースター誰も乗りませんよね。1兆回に1回も事故らない、それが当たり前。でもその「絶対安全」を得るためには、気が遠くなるような工程上の吟味が必要だ。その吟味が信用できます、というのがJISマーク。だからみんなは安全を信じてスリルを楽しむことができる。どこかの奇特な金持ちがお手製のジェットコースターを作って「ただで乗せてあげるよ」といわれても誰も乗らない。

レ  レ コード会社のことをメーカーといいます。まさに製品を製造(メーク)し、それに値段をつけて消費者に販売する会社のことです。またここでいうレコード会社とは単にCDを製作するプレス工場としてのメーカーのことではなく、原盤を制作し、CDという製品におきかえて宣伝して販売する会社としてのレコード会社のことです。
 レコード会社は売らなければならない、売れないものを製造すれば潰れてしまいます。では売れれば、どんな音楽でも製品化するか?といえば、そうではないのです。そこには一定の基準を満たさないと販売させてはならない基準があるのです。

 「 ウッソー」という声が聞こえてきそう。「メジャーメーカーって、くーだらない音楽ばっかり作ってるじゃない!」
あまりな正論に思わずたじろいでしまいますが、どんなにくーだらない音楽と思われようと、商品化するまでには、いくつもの制作過程と製造工程があるのです。制作の企画の段階から宣伝プラン、営業施策、制作現場、マスタリング、プレス工場での作業工程以外に、世の中に出ていくまでに本当にいくつものチェック項目があります。会議やチェックばっかりで、ムダに時間がかかりすぎてんじゃないの、というご批判にはあえて反論しません・・・というかできません、ハイ!
 ですが、メジャーメーカーはインディーズと違い、今日作ったものを明日出す、というようなことはしない、というか、できないんです。
何故か、簡単なことです。メーカーである以上、世に出す商品が安全なものであるのか、その確認が必要だからです。音楽家としての素材は氏素性の正しきものか、制作過程において完全なものを作れていたのか?もっとも大事な点検事項は、果たしてこの製品は有意義なものであるのか?です。ですがこれはなかなか判定が難しい。音楽は食品や電化製品ではないから安全基準なんて作れない。ましてや、その音楽が世の中で必要とされているのかなんて誰がどうやって判断するの?できっこないでしょう?

 はい、できません。でもやります。それがメジャーレコード会社のモラルであり、職人としての誇りであり、企業人としての存在意義だからです。
 僕 の社会人としてのスタートはRVCというレコード会社でした。この会社は日本ビクターとアメリカのRCAコーポレーションとの50%ずつの出資による合弁のレコード会社でありました。その入社式が行われた日本ビクターの講堂には、垂れ幕がかかっていました。なんと、右側に「文化に貢献」左に「社会に奉仕」と書かれてあるではないか。見た瞬間「ゲッ!スローガン?ガーン!なんと大袈裟、なんと時代錯誤!」と思ったものです。しかし、その後、この一見、古色蒼然とした言葉の持つ意味を幾度となく思い返すことになりました。スローガンや標語というスタイルは確かに古びていても、その言葉の中身は少しも古くなっていない。むしろ最近では、この言葉の持つ意味を考えなくなった企業が衰亡していく様を見ることが多くなっています。まだまだぼくらの記憶に新しい雪印食品や日本ハムの企業ぐるみの犯罪隠し、JAの米の混入割合の偽装表示、最近では三菱自動車のリコール隠し、これらは、会社は株主、社員に対する責任だけでなく社会に貢献するという3つ目の責任を忘れ、メーカーとしてのモラルと誇りをなくした企業の惨状を曝しました。でももっと大きな問題は、このような体質をもつ企業は他にもいくつか、いやひょっとすると実は殆どの会社がこれらの企業と同様なのではないかとの疑いを僕らのこころの中にもたらした事かも知れません。
 ベルリンの壁が壊れて以来、社会主義や共産主義はもはや過去の遺物で、資本主義こそが最高のイズムのような喧伝のされかたをしますが、本当にそうなのだろうか?恣しいままの行き過ぎた資本主義の結果として現れた帝国主義と労働者からの過酷な搾取に対する強烈なアンチテーゼとして立ち現れたのがマルクスの「資本論」であり、それを出現させるに至った時代の背後にあった問題点は実は何ひとつ解決されていない、と見るべきではないか?
 マ ックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」によれば、 そもそもはキリスト教プロテスタントの禁欲の精神が近代資本主義を産んだ、とあります。

 どういうことでしょうか?
  ひ じょーに簡単にいうと・・古代ギリシャ・ローマやペルシャの時代はもちろん、 中国やアラブが世界の経済・文化の中心であったころも言うに及ばず、イタリアにルネッサンスが花開き、メディチ家が栄華を極めてもなお、実は近代資本主義はかの地に生まれなかった。それが生まれたのは、実は当時はむしろ経済的にも文化的にも後進国であったオランダ・イギリスそしてアメリカであったのは何故か?しかもその3国は当然にキリスト教社会ではあるが、カトリックでなく、皮肉にも世俗的利益追求を断固拒否する教理を強烈に維持していたプロテスタント社会であったことはどう理解すればいいというのか?と問い立てします。
  ウ ェーバーは答えます。

即ち、ルターやカルビンによれば、職業は神に選定されており(人がどの職業を選択するかはあらかじめ神に予定されていて(予定説)、その職業(ルターは「天職」と名づけます。英語では、“CALLING”・・神様に「CALL」されているから・・ま、「神様の思し召し」ってやつですね)を一心不乱に(「禁欲的」とはそのような「わき目もふらず」状態のことをいう)やりとげること、言い換えれば、天職に勤勉に励むことが神の心に適うことであり、その結果として利益が出ていれば、その利益を出した人は神に「あらかじめ救われる予定の人」として選ばれてあることの証明になる。しかもプロテスタント者の生活は極めて質素(儲かったお金でいい暮らしを送ることを目的に働いていない、どころかそれを目的に仕事をしたり、浪費するなどのことはもっとも神の心に背くものとしてプロテスタンティズムにおいて厳しく排斥される)であることを聖書的に強いられているので儲けはどんどん貯まる。そしてそれを隣人愛に振り向けることがキリスト者の精神に適う。(だからいまでも英米では「寄付」行為が当たり前のこととして定着している。)更に勤勉なプロテスタント者はその循環効率をどんどん高めるよう改良に改良を重ねていく。結果カトリック社会より格段に生産性が高くなる。いきつく先として、これらの国では合理的産業社会が制度化されていく。しかし一度制度化されてしまうと、その後は、プロテスタンティズムの精神がなくても、いや、それがあろうがなかろうが、利益を上げ続けることの方が主題化されていく。従って、一旦組み上がってしまった資本主義の制度が今度はその制度内に生きる人の生活を規制(利益をあげないと生きていけない!だから利益を上げるよう働け!と強制)していく、その過程こそが近代資本主義生成のプロセスである、と。 つまり、「近代資本主義は、その誕生時においてこそプロテスタンティズムの精神を必要としたが、制度として完成した瞬間、その禁欲の精神「神の予定し給うた天職に「貪慾」に励む」という価値合理性をすっぽり喪失し、「利益追及に「貪慾」に励む」という目的合理性だけが残った」とウェーバーは言います。
  そ こで本日のお題・・

「何でも、どんなものでも(NG集でさえも)世に出して売りゃいいってもんかい?」
  へ のお答え

音楽をCDというカタチあるものにして世の中に出すことは、「どうせ音楽なんて個人の趣味が大きく左右するんだからなんでもアリ!」といって勝手気まま、自由きままに販売していいものではない。でもミュージシャンはなかなか「何がアリで、何がアリじゃないのか」の判断がつかない。だから音楽を直接作るわけではないスタッフの役割は、ミュージシャンが作ってくる音楽が商品として安全かどうかを全身全霊を傾けて判断し続けること。そのスタッフの集団である組織体としてのレコード会社は、自らのレーベルをつけて販売するCDがどう社会に影響するのかを全知全能を傾けて判断し抜くところなのです。
  レ コード業界で「耳がよい人」とは絶対音感を持っている人のことを 言うのではなく、その音楽が安全かどうかを一瞬で聴きわける能力を持つ人のことを言うのである。

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