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表現すればいいってもんかい〜音楽と音楽著作物の違い
 と ころでみなさんは、音楽とは「音楽家が感じたことを感じたままに表現したもの」だと思っていらっしゃいませんか?
「違うの?」
「だって、それがクリエイティブということでしょ!」

「違います」

 以 前僕は「ストーリー不信とラップ現象」という文章の中でこう書いたことがあります。

「・・でも僕は、感じたものを感じたままに表現したものは、文化ではないと思ってます。最初にナニカを感じることはもちろん大事です。でもその感情のよってきたるものは何なのか?なぜそういう感情にとらわれるのか?そういう分析を経て表現されたものでないと著作物ではない、と思います。わかりやすい例は幼児が書いた絵です。それらは、無邪気で、新鮮です。それは感じたものを感じたままに表現しているから、人々の微笑を誘います。でも、子供たちの絵がオークションにかけられて1億や2億で取引されることはありません。分析を経ない表現は深い感動を呼ばないからです。」

 言い換えれば、感じたものを分析し、悪戦苦闘して、表現されたものが音楽であるといえます。
 さ て、著作権法は知的財産ともいわれる無体財産に関する法律の一つですが、著作権法と他の無体財産権(例えば特許、商標、実用新案など)に関する法律との違いは、ひとえに「この法律は・・・もって文化の発展に起用することを目的としている」(著作権法第1条「目的」)ところにあります。すなわち、著作権は文化財である著作物に係わる権利なのだ。

 そして著作権は著作物を創作した人に付与される権利です。では、そもそも著作物とは何なんでしょうか?
 現 行の著作権法にその定義があります。

「著作物」とは「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」(著作権法第2条「定義」第1号)

 おー!意外に短くわずか2行・47文字!これ以上でも以下でもなく極めて明快簡潔!

 つまり要件は4つ・・@「思想又は感情」がA「創作的」にB「表現」されたもので、C「文芸、学術又は音楽の範囲」に属するものであることが必要なのです。大事なのはこの4つの要件の全てが揃っていないと、逆にいえば、どれか一つ欠けても、それは「著作物」ではないのです。
 そ れぞれの要件を音楽著作物に限定して一つ、一つ見て行きましょう。

 @ 「思想・感情」
これは簡単に言えば、その音楽のよってきたる淵源が「思想」だったり「感情」だったりするということ・・・まんまじゃないですか?・・そーです!・・つまり、何かに感動したり、悲しく思ったり、嬉しかったりする、そんないろいろな感情や思いを淵源として生まれてくる音楽が著作物たりえるということです。ですから、もしコンピューターに、あるデータと一定の方式を投げ込んで(自分で表現したい音楽をプログラム化する意味ではない)自動的にでき上がった音楽があったとしてもそれを音楽と呼ぶことはできても「音楽著作物」とは呼べないということになります。なぜならコンピューターには思想・感情がないからです。「2002年宇宙の旅」のハルのように近未来においてコンピューターが感情をもてれば、また違うでしょうが・・このことは比較的理解されやすいと思います。
 A 「創作的に」
こちらはちと難しい・・何をもって「クリエイティブ」とみなすか?と考えるより何が「クリエイティブでないか」と考えた方が分かり易いかも知れません。絵画でいえば、模写は「創作的な」ものではありません。ですからどれだけ精巧に模写されていてもいわゆる贋作は著作物ではないといえます。音楽でいえば、完コピ(ま、これは厳密に言うと実演なので著作隣接権だけど)・・技術習得の修練のためには欠かせませんが、いかに完全にコピーできても、創作性があるとは見なさない。しかし、それ以外は、実は「創作性がありやなしや」の判断は難しい。
だからどんだけ自分の目や耳で「こんな音楽、クソやんけ、どこがクリエイティブやねん!」と思っても、模写や完コピのように明らかに創作性がない、と判断される場合以外「創作性」ありと判断されるということです。
 B 「表現されたもの」 きわめて当たり前に思えるので、うっかりすると、つい見過ごしがちなこのフレーズ「表現されたもの」・・実は、これが本日の裏テーマです。 未だ表現されていないもの・・・つまりアイデアの段階や理論自体は著作物たりえない、あくまでそれらのアイデアや理論が具体的に絵画や音楽や小説に「表現され」てはじめて著作物たりえる条件の一つを満たす、ということです。

よく欧米では、夫婦がでがけに「I LOVE YOU」と言い合うというのがあり、日本では「そんなこと、よー言わん!」ということになってます。でも欧米人は「愛してるぜ」って言わないと愛していることにならない、つまりいくらココロの中で「愛している」つもりでも、やっぱ「愛してる」と声で表現しないかぎり、それはいまだ、または「もう」「愛してはいないのだ」と知っているのではないか。 少し前(いや、だいぶ前か)、あれほど強かった横綱「千代の富士」が引退記者会見の席で、「体力の限界・・」と言って絶句したシーンを覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、彼はあの言葉を発したときはじめて「引退」したのです。また最近多い悲惨な事件を報じるニュースなどで、家族を亡くした遺族が涙をみせずに気丈にふるまっていても、インタビューを受けて、話そうとして一声発した瞬間、あとが続けられず悲嘆にくれるシーンを目にしますが、遺族はまさにそのとき、愛する者を失ったのでしょう。

誰かを好きになる・・でもこころで思っているあいだは、未だ好きではない、「好きです」と口にしたりラブレターを書いてはじめて相手を「すき」になるのと同じく、表現されてはじめて、世に「著作物」が現出するというわけです。
 僕 がよく引用する松下幸之助さんの言葉
「どんなにすぐれた発明であっても、それが人に知れていない限り、その発明は未だなされていない」に通じるものがあります。
  C 「文芸、学術又は音楽の範囲」に属するものであること これは厳密に3つのカテゴリーに入らないものは著作物ではない、ということではなく、あくまで例示であって、知的・文化的な範疇にはいるものであれば、足ります。
  と ころで、感じたものを分析し、悪戦苦闘して、音楽として表現する、なぁーんて簡単に言いましたが、実際の音楽なんて、そもそもあらかじめ、そのよってきたる感情や思想を分析してから「あらよっ、ちょちょいのちょいっ」と表現するものではない・・「感情を分析する」ったってそんなことアタマでなんかできやしない。じゃあ何が行なうの?それは身体が行なっているのです。つまりアタマのかわりに「身体」が表現しながら分析しているのだと思います。たとえばギタリストやベーシストとは、感じたことを指によって表現しつつ分析し、分析しながら表現する・・そんな存在ではないか、と思います。僕にとって「書く」という作業がまさにそれと同じです。何かを感じる・・でも何故そう感じるのかわからない、だがその正体を知りたい・・そんなとき、ワープロに向かいます(今の僕が正にそうなんですが)。そのとき僕のあたまにあらかじめ結論がでていることはありません。それは指が、手が「書く」ことによって、感じたものの正体が何であったのかを事後的に教えてくれます。オーバーに言えば自動書記(神戸女子大学の内田樹さんは、「霊感が憑依しての「お筆先」状態」と呼んでいます)。フツー人は考えてから喋ると思いがちですが、実は喋りながら考えているのであり、思考とは、頭脳がする(アタマが先に考える)というより、口や手が先にする(肉体が先に思考する)んだろう、と思います。
  3 年前NHKホールで行われた「山下達郎」さんのコンサート「RVCエラ」のMCで彼はこう言っていました。
「・・・ツアーが始まっても、最初の頃はなかなか声が「歌」になっていかない。コンサートがようやく中盤にさしかかる頃、ようやく身体と声が馴染んできて、咽喉だけでなく肉体が共鳴して「歌」になっていきます・・」と。

 つまり「身体」が鳴ってこそ「創作的」に「歌」が「表現」されるのです。
  思 考やアイデアというものは頭に浮かんでいる限りはこの世に存在していない。言語化されたり、音楽的に表現されて初めてアイデアがこの世に現出したことになる。僕がいろいろな人に「何か書いてみれば・・」と薦める理由はこれです。だってアタシギター弾けないもん!とか、でもオイラ絵ヘタだしー、とか、ひるむこともない、みんなメールが打ててるんだから文章くらいは誰でも書けるでしょう。
  み んなどんどん「創作的に」表現しましょう!
でもそれができるようになる為には、どんどん指や手や足やノドを鍛えましょうネ!

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