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スモールタウントーク「カナダ・南部」
 そもそもなぜに、かくも北米カナダにカントリーミュージシャンが多いのか。

 いわれるまでもなく、アメリカは移民の国である。どこからやってきたのか?最初はイングランドからやってきた清教徒たちだった。その後に続いたのは、スコットランド、シェットランド、そしてアイルランドである。だから、スコットランド人がアメリカ東部に来たとき、すでにそこは先乗りしていたイングランド人によりニューイングランドと名付けられるほどイングランド化しており、スコットランド人の働き場所は、かれらがやりたがらない、今で言えば、3K職場である警察や消防しかなかった(だから今でも、伝統的にアメリカの消防や警察のイベントにはバグパイプにタータンチェックのスカートで演奏する楽隊が欠かせない。グランドゼロでもそうだった)。
 だだがそれでもまだ、スコットランド人は幸せだったかもしれない。グレートブリテン諸島からの最後発組であるアイルランド人たちには、同じケルト系のスコットランド人と和して3K職場に潜り込むしか生きる手だては残っていなかった。だがそこすらもあぶれた人々(もちろんその中には新大陸において早々と負け組となった落ち目のイングランド人もスコットランド人もウェールズ人も入っていただろう)はしかたなくアパラチア山脈にそって、アメリカ東海岸を南下する。そこは、今のヴァージニアやウェストヴァージニアであり、そのさらに西が現在のテネシー、その南に南北キャロライナが続き、さらにその南部に広がっているのが現ジョージア州である。その先にはフロリダがあるだけだが、アイルランド人たちがジョージアまでたどり着いたころのフロリダはスペインの植民地であったため、アイルランド人たちはその時点では、アパラチア山脈の南端でとどまらざるを得なかった。
 ところでスコットランド人たちは、ニューイングランドの下層階級で苦労しながらも何とか、かの地に住みついたと書いたが、別のスコットランド人の一派が開拓した土地がある。それがカナダの東のはじ、北にセントローレンス湾を抱く「ノバ・スコシア」である。「ノバ・スコシア」はラテン語だが、英語に直すと、意味は「ニュー・スコットランド」である。この地は17世紀の初めにフランス人によって入植が始まったが、すぐにスコットランドからの入植者も入り込み、そこでは英仏の混在したコミュニティが出現していた。しかし新世界のリーダーシップを争った英仏の対立(フレンチインディアン戦争)はイギリスの勝利に終わり、その地で「アケイディアン」と呼ばれていたフランス人はそこを追われ、結局その後、その土地は、残ったスコットランド人によって入植が進んた。そうなのだ、「ノバ・スコシア」とは、彼らスコットランド人が自らの希望をこめて名づけた土地なのだ。
 では追われたフランス人はどこまで落ち延びたのだろうか?彼らの一部は船でアメリカ東海岸を巡り、また一部はミシシッピ川を南に下って、現在のアメリカ最南部、フランス国王ルイ14世にちなんで名づけられた、イングランドの影響の及ばないルイジアナ州までおちのびていったのである。そしてその地では、イギリスなどより早くからアメリカ南部に入植していたスペイン人や逆にイギリス系の移民に遅れて移民を開始したドイツ系やポーランドなどのスラブ系の人々と混血し、のちにクレオール文化と呼ばれる異種混合・混血文化を形成するに至る。そして「アケイジャン」の最初の音「ア」は弱音のため、いつしか無声音化し、「ケイジャン」と発音されるようになる。賢明な読者ならもうお気づきであろう、アメリカ南部の独特の音楽「ケイジャン・ミュージック」はこうして成立していったのである。
 アパラチア山脈の南西端(つまりブリテン系移民の南西限)とミシシッピデルタ(つまりフランス系移民の北東限)を結ぶ要衝の地、それがテネシー州の州都ナッシュビルである。現在も80以上のレコーディングスタジオを擁し、すべてのカントリーミュージックの総本山であるこの町と双璧の南部ミュージックのもう一つの総本山それがルイジアナの最南端、ミシシッピ川の終点ニューオリンズである。この“新しきオルレアン”にダニエル・ラノアがスタジオを作り、そのスタジオに「ティアトロ」(スペイン語で「劇場」とか「映画館」の意味・・アメリカ南部で繰り広げられたアメリカーナ・ミュージックの歴史を、ナッシュビルを右の、そしてニューオリンズを左の視座として概観すれば、まさに大劇場で演じられる壮大な音楽ドラマを目の当たりにしているように感じられることだろう)と名づけ、ついには、そこに住み着いたのも音楽地政学(そんな学問はないけど)的に見れば故無きことではないのだ。
 ところでこのダニエル・ラノアは2003年自らの3枚目のオリジナルアルバム「シャイン」を発表した。一聴しただけでそれとわかるダニエル節だが、独特の浮游感漂う、素晴らしい作品である。そしてこのアルバムは実に10年ぶりの発売であった。そして更にその3年前の1989年に発表されたダニエル・ラノアのシンガーソングライターとしてのデビューアルバムのタイトルこそ「アケイディア」であったのだ。カナダからルイジアナまで南下してきた自分自身を、400年前にノバ・スコシアからアメリカ南部まで漂泊し、しかしその運命に耐えながら、その地で独特の音楽文化を作り出した祖先になぞらえつつ、かつ十分な敬意をはらってのネーミングだったのだろう。ネビル・ブラザーズの「イエロー・ムーン」やボブ・ディランの「オー・マーシー」のプロデュースの合間を縫って制作されたこのアルバムは、自分の音楽が、さまざまな歴史と運命の綾の中で生み出され、はぐくまれてきた、奇跡とも思える先人たちの音楽に扶養されていた事実とその影響に対し、敬虔な態度で感謝の気持ちを表した、低迷する80年代音楽に決別をつげ、再び音楽に活気を取り戻す90年代の訪れを告げる傑作アルバムなのである。(その割に全然売れなかったが)
 「アケィディア」といえば、もう1曲忘れられない音楽がある。それは「ザ・バンド」の7作目のアルバム「南十字星」(1975年発表の後期代表作)に収録されている「アケィディアの流木」だ。まずリチャード・マニエルとリック・ダンコのカナダ人二人と南部出身のリボン・ヘルムが、英米戦争で敗れてニューオリンズまでやってきたアケイディアンの敗残の歴史を「流木」と「ジプシー」に譬えた歌で物語る。だが、彼らは「またきっといつの日か北に磁石を合わせるのだ!」と自らに言い聞かせ、最後に母国語のフランス語で、カナダに残した架空のヒロイン「アガディア」に向かって「オレは行く!アガディアに逢いに行く」と繰り返して終わるのである。またこの曲では、アコーディオン(ドイツ移民がアメリカ南部に広めた)やバグパイプ(どこの楽器かは言うまでもない!)、それにゲストプレイヤー、バイロン・バーラインの哀愁を帯びたケイジャンスタイルのフィドルがとても効果的に使われている。アレンジはザ・バンドの坂本龍一“教授”こと「ガース・ハドソン」である。メンバーから“プロフェッサー”(但し「マッド」が頭についていたらしい)と言われて尊敬を集めていた彼のことだ、アケイジャンの哀しみの歴史もよく知っていたのだろう。アルバム中最も収録時間の長いこの曲を見事な楽器アレンジでドラマチックな傑作チューンに仕上げている。
 ところでこのアルバムは邦題でこそ「南十字星」だが、原題は「ノーザン・ライツ・サザン・クロス」である。である。邦題をつけた日本のレコードマンは「北極光・南十字星」では長すぎると考え下半分だけを訳したつもりかも知れない。だが、それではこのアルバムの制作意図を見誤ることになる。「北極光」とはなんのことはない、オーロラのことだ。また「南十字星」といったって、アメリカ南部が南半球にあるわけじゃなし、南十字星が見えるわけでもない。このアルバムタイトルは、カナダ人、リック・ダンコ、ロビー・ロバートソン、ガース・ハドソン、リチャード・マニュエルがアメリカ南部人リボンヘルムとともに、オーロラ(ノーザン・ライツ)が見えるくらい遠い北の果てから追われて、南(サザン)の果てまで縦断(クロス)してきた「ザ・バンド」の祖先たちが味わった哀しみのドラマを、まさにダニエル・ラノア同様、自らの音楽のルーツと捉えなおしてたどり着いた魂の記録なのだ。
 ザ・バンドはロックバンドとして思わず大成功を納めてしまった。すでにこの時点で巨大化を始めていた音楽ビジネスのうねりのまっただ中で迷い、もがいていたのだろう。そんなかれらが、もう一度自らの音楽の根源を取り戻すには、そのルーツを探しだす旅にでかけなくてならなかったのではあるまいか。アルバムジャケットもまるで漂流したあげくようやくどこかの浜辺にたどり着いたかのように、五人のメンバーが砂浜で焚き火を囲んでいる。裏ジャケットでは、輝く満月がそんな彼らを冷静に見つめている。
  ア メリカ音楽を深く知りたいと思ったとき、地図を広げてながら聴く、ということはあまりやらないと思う。だが、地図帳好きの僕は、世界地図をみながら聞くことがある。するといろんな素朴な疑問がわいてくる。なぜ、南部の黒人のブルースがシカゴなんていう北部アメリカで興隆したのか?同じくソウルフルな黒人レーベル、モータウンはこれまたデトロイトなどという五大湖周辺の都市から生まれるのか?そもそもソウルの名門レーベル名「アトランティック」にはどういう意味がこめられているのか?etc,etc.

 また、地図にも載らないようなNYの北の小さな田舎町ウッドストックに、さながら梁山泊のごとく、なぜあれほど多様なミュージシャンが集まり、傑作群を生み出していったのか?それも謎だった。
  も ちろん、ミシシッピ川の存在が、アメリカ南部と北部を結びつけことは、よく知られていることだ。ニューオリンズを起点としてミシシッピ川を北上すれば、バトン・ルージュを経由してすぐにロックンロールの故郷メンフィスにたどり着く。さらに遡上を続ければやがてブルースの街、セントルイス。そして最終的にミシガン湖のほとりアーバン・ブルースの街シカゴに行き着いてしまう。ミシシッピ川を通じて行き来した人々、とくにギターやバンジョー一本抱えて仕事を求めたであろう黒人たちは、自らの労働力と共に、生まれ故郷の音楽すらも“川”を往来させたのである。そのシカゴから少しエリー湖よりに東に行けばそこにモータータウン「デトロイト」がある。自動車工場で働くのは圧倒的に黒人たちだった。この街に黒人の黒人による黒人のためのレコード会社ができても何の不思議もなかった・・・・・と、普通は、このように、アメリカの音楽における南北問題は、ミシシッピ川の起点シカゴと終点ニューオリンズを結ぶ枢軸ラインを語り倒すことで終わることが多い。
  だ が、もう少し世界地図を俯瞰してみよう。すると、エリー湖のほとりのデトロイトはカナダとの国境に接していることに気づく。エリー湖の北にはカナダ最大の都市トロントがある。シカゴとデトロイトの距離はデトロイトとトロントの距離にほぼ等しい。トロントからオンタリオ湖を通りセントローレンス川をいけば、オタワ、さらにはモントリオールを通過しながら最後に行き着くところ・・それがノバ・スコシアである。その先はもう大西洋“アトランティック”が広がっているだけだ。400年前、そのノバ・スコシアをイギリス人に追われた「アケイジャン」たちは、まさに石持て追わるるごとく、船で“アトランティック”オーシャンを南下する。だがスペイン領のフロリダに上陸することもままならず、はるかメキシコ湾を通って、ミシシッピ湿原が広がるルイジアナまで落ちのびなければならなかったのである。
  ア メリカ南部はイギリスを含むヨーロッパからの移民たちの行き止りの地であり、またそこは、アフリカ大陸から大西洋、カリブ海を渡って(いや、彼らの場合は、渡らせられた)黒人たちの行き止りの地でもあった。行き場を失った両者の音楽はそこで合流し、融合し。凝縮される。こうしてブルース、カントリー、ジャズ、そしてロックンロールが誕生する。
  豊 饒の大地で豊富な音楽的栄養素を取り込んで成長した音楽は再びミシシッピ川を北上し、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリー湖、オンタリオ湖を通り、セントローレンス川に入り、セントローレンス湾を通じて大西洋にそそぎ込む。そこがノバ・スコシア・・・・まるで下流まで流れていく間に様々に利用され、多くの恩恵をもたらした音楽が、役目を果たし終えたかのように、ミシシッピという大河と五つの太湖という巨大な浄水装置をさかのぼって濾過され蒸留されていく過程のように思われる。そうしてスピリッツを取り戻した音楽をノバ・スコシアが受け止める。そうして力を取り戻し昇華した音楽はそこから再びゆっくりと時間をかけて大西洋を南に下っていく。またそのあいだにたくさんの栄養素を溶かし込んで行く。そうしてメキシコ湾まで南下した音楽はまた長い時間をかけ、北上し余分なものを濾しつつスピリッツを取り戻しながら大河と太湖を北上する。
  北 極圏やグリーンランドの氷が解けて、悠久の時の流れの中でゆっくり海底を循環しながら地球環境を再生して太平洋に至るという“深層海流”のごとき、何と雄大な大河と太湖、そして大海による音楽再生循環装置なのだろう。

 北アメリカの地図を眺めていると、歴史が偶然という名の必然の積み重ねであるように、音楽もまた歴史(とき)と地理(ところ)が織りなす必然の偶然によって生み出されるものだ。ということをつくづく実感させられる。
  と ころで今回この文章を書きながら気づいたことがある。
 ぼくの三大フェバリットギタリストは「マーク・ノップラー」「ニール・ヤング」そして「エイモス・ギャレット」なのです。
 またこの三人は、同じくぼくの三大男性フェバリットボーカリストでもある。
 この三人なら、一日中CDをかけ続けてもまったくあきることがない。
 そしてなんとニール・ヤングとエイモスがカナダ人、そしてマーク・ノップラーはスコットランド人であることにあらためて気づいたのであります。。
「なんとまぁ!奇遇であることよ!」
である。でも今回、北米大陸を水の循環でたどってみた僕にとっては
「なぁーんだ、結局そーゆーことかいな」
でもあるのだ。
  と くにエイモス・ギャレット・・あの音楽梁山泊ウッドストックの傑作群に欠かせない、聴く人のこころをあっというまに天上界にさらってしまう、この世のものとも思われないマジカルなギターフレーズ。そしてひとびとのこころに幸せを運んでくる絶品のバリトンボーカル。
  ウッドストックはNYからハドソン川にそって2時間半の田舎町だ。もともと1900年代初めから画家や家具職人たちのアーティストコミュニティだったが、ボブ・ディランがすみ始めてから多くのミュージシャンが集合し、ミュージック・ビッグ・バンともいうべき様々な奇跡的出会いがあった。そこにはイアンとシルビア、ゴードン・ライトフットらのカナダ人ミュージシャンもいた。エイモスは彼らにつれられてやってきたのである。NYマンハッタンからハドソン川に沿って北に上がれば、モントリオールに到着する。そこからセントローレンス川を下ればオンタリオ湖へ出る。湖の向かいにトロント。ナイアガラの滝を下って(下れない!っちゅうの!)バッファローからエリー湖を行けばそこにはデトロイトが。そしてそこから車に乗り換えて真西に4時間・・・僕たちはようやくミシシッピ川の起点シカゴに辿り着くのである。
  シ カゴについたら・・・
「さぁ、船に乗ってミシシッピを南に下ろう!
行き先は?
もちろんニューオリンズ!」。
マ ンハッタンとモントリオールの途中にある小さな町「ウッドストック」・・ ここにもアメリカ南部とカナダを川と湖で取り結ぶ、 音楽濾過装置、スピリッツ再生循環装置があったとさ、 という「スモールタウントーク」でございます。


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