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なぜ、ミュージシャンを「アーティスト」と呼ぶのか?:後編
 だから「いいものを作らせてあげる」は、耳障りのよい言い方だけど本筋ではない。大体において「いい」ものなんてものは、ひとさまに言われなくてもミュージシャンが勝手に作ってきます。しかしそれはあくまでミュージシャン自身が「いい」と思う「いい」ものを、です。そこにはスタッフの存在意義もマーケットの影響もない。スタッフがいようがいまいが、「いい」ものを作ってくるんだとすれば、一体どこにスタッフの存在意義を見出せばいいのか?
  ポピュラーミュージックで生きている限り、マーケットと無縁ではいられません。しかし、ミュージシャンはマーケットを見たがりません。市場は日々、いや時々刻々と変化し決して一定せず、またどこへ向かって動こうとしているのかも判らない、得体の知れない、わけのわかんないものだから極力見ないですませたい。マーケットを見るということは怖いものを見ることだし、それにとらわれることの怖さを本能的に知っているから、そういう傾向は常にある。でもマーケットは見つめすぎてもいけないが、見なさすぎてもまたいけないもの。そこへ斜眼帯をかけると、たとえマーケットの一番外のフィールドをのんびり走っているつもりでも、いつのまにか斜行していしまう。だから常に視界の端には映しておかねばならない。  
 またそこへ加えてスタッフまでもが斜眼帯をかけてミュージシャン「なり」に走ってしまっては、もはやポピュラーコース内からコースアウトして府中の森へ消えてしまう。スタッフとは、一定のマーケットをミュージシャンの視界につねに写しておく(視界に占めるマーケットの影の割合はミュージシャンの資質に合わせて決まるでしょうが)こと・・これにつきるのではないでしょうか?。ほどほどに見せることができるかどうか、欲をいえば、マーケットを無意識のうちに意識させることができればそれがベストでしょう。ミュージシャンがやりたいことをすべてやらせるのではなく、またミュージシャンがやりたくないことをやらせるのでもなく、というバランスの上で、スタッフは「ミュージシャンが」、ではなく、「みんなが」いいと思うものを「作らせる」ことができるかどうかの一点のみを問われるのです。みんながいい、つまり沢山複製される=「様々に利用される」音楽を作らせられるかどうか、なのです。ミュージシャンが「いい」と思うものを作らせる!は嘘です。さきほどいったように、それは勝手にミュージシャンが作るんです。
 手に自分のお金で、自前のスタッフで、自分がいいと思って作る音楽は、どんなものであっても許されます。でも、人のお金、人様のスタッフを使って作るのなら、「自分」勝手にいいものを作ることは許されないと知るべきです。むしろ「他人」勝手にいいものを作る義務があると知るべきです。それはいやだ!という人もいるでしょう。それなら自分で作ればいいだけのことです。
 芸術作品でないかぎり「いい」音楽か「わるい」音楽か、なんて誰にも言えません。
 言えるのは、「好きな」音楽か「嫌いな」音楽か、だけ。見えるのは、「売れた」音楽か「売れなかった」音楽か、この二つだけなのです。
  い音楽、わるい音楽・・いい=「善い」、わるい=「悪い」と書きます。併せれば「善悪」です。これほど強い価値判断基準はない。そんな絶対的判断基準をもてる人がいるんでしょうか?
  でも好き嫌い・・これは誰にでもあるものであって、まぎれようもないもので、かつ他人にどうこういわれるものではない。また、売れたか、売れなかった、これも明々白々のことです。
  この二つを、業界の用語、判断基準とすべきではないでしょうか?
  ミュージシャンをアーティストと呼ぶ習慣の反動形成として、実はあやふやな「いい」音楽、「悪い音楽」という価値基準を、この業界に許しているのではないか?
  「エピローグ」
  あるとき、僕は、南青山の事務所で、故・大村憲司と彼が書く映画評について打ち合わせをしていた。
「ところで、憲司さん、映画評を書く時の肩書きはどうします?アーティスト?」
「・・・よせやい!俺はギタリストだ!・・それ以上でも、それ以下でもねぇよ」
  1996年8月の、何とも、すがすがしい思い出である。


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