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マデリング・スルー〜音楽業界における名将の育て方:第5回/ぶらきぼう

 スタッフの育て方、なんて大層なタイトルのもとにながながと書いてきた。いまこの文章を読んでいる、もしかして、部下やスタッフを育てねばならない立場の方もいらしゃるだろうが、ながながと書いておいて、結論は、冒頭に掲げたとおり「名将を育てる王道はない」ということだ。「さまーず」の三村なら「なんだよ!王道なしかよ!」といわれそうだが、「はい、すいません、ありません。」と言うしかない。だが、ご自分の胸に手をあてて過去を振り返れば、確固としたセオリーやメソッドに沿って自分が育てられてきた、という記憶をお持ちの方の方がむしろ少数だろう。
  とはいえ、失望を与えたかもしれないので、お詫びといってはなんだが、最近読んだ、中西輝政氏の「なぜ国家は衰亡するのか「(PHP新書)中の興味深い一節をご紹介させていただく 。

 「マデリング・スルー」

 すでに21世紀は目の前にあるが、この世紀はいつまでたっても霧が晴れない、いわば「霧の世紀」であるようにわたしは思う。いつまで待っても、高度成長期に見られたような右肩上がりのパラダイムが通用する時代は戻ってこないだろう。言い換えれば、20世紀後半の50年ほどすべてが固定して「見えやすい時代」はなかったのである。世界史の例外といってよいだろう。その意味で21世紀は「普通の時代」への回帰なのである。それゆえいち早くこの50年の常識を捨てることが大切になってくる。
  ところが、日本人の精神には、いまだに右肩上がりの"刷り込み"が残っているために、厳密な現状認識を欠いた「まだまだ大丈夫だ」という議論がなされ。またそうした議論に心情的に賛同することが多い。これは取り返しのつかない大きな挫折につながる見方だと私は思う。
  日本には多くの強みがあるという点については、私もまったくそのとおりだと思う。日本型のシステムが何から何まで劣っており、すべてを捨てて新しくやり直すべきだ、というような議論は明らかに間違っている。しかしながら、現在の日本のリーダーたる人たちでさえ、物事を冷静に見て情勢を冷徹に判断するとともに、心のなかにつねに活力を維持して、しかもこの二つを分離できるという心の訓練がなされていないことも事実である。
 このような"霧のたちこめめ始めた時代"に活力を維持しているように見える国がアメリカとイギリスであるというのは、私には偶然とは思えない。それは日本のエコノミストたちがいうように経済システムが単にアングロ・サクソン型だからではなく、彼らが基本的に不透明さや「カオス」を積極的に喜ぶ民族だからにほかならない。不透明さのなかにゾクゾクとした興奮を覚えるというのがアングロ・サクソンの民族性というものなのである。それはなによりも「直視すること」の大切さを第一義とする習性の強みともいえる。

(中略)

  英語にはマデリング・スルーという言葉がある。これは直訳すれば「泥の中をくぐりぬける」ということだが、遠くの見通しはつかないなかでも、積極的に当面の困難に立ち向かいそれを切り抜けて、大きな成果につなげるという意味に用いられる。
  18世紀のイギリスで生まれたこの言葉は、「その場しのぎ」とはむしろ正反対で、結果そのものよりもプロセスを楽しむといういわば「サムライ」的な気概に発するものが含まれていた。それは冒険心とリスクにむしろ奮い立つ勇気につながり、物事を何から何まで明瞭にして、それから計画とおりにそれを実行して結果を得るということにはおよそ興味を覚えない、精神の強さを大切にし「志」を重んじる態度、行動様式にとして受け継がれていった。
  たとえば、それはシェークスピアの戯曲にも現れているといえよう。シェークスピアの戯曲には悲劇もあれば喜劇もあるが、人生の本質はプロセスである、というギリシャ・ローマの古典につながる考えが根底にあると思われる。日本人はシェークスピアの悲劇と喜劇との違いがわからずとまどうが、人生の本質がそのプロセスにあるのならば、結末が悲劇であろうと喜劇であろうとどちらでもかまわないのである。
  アングロ・サクソンがスポーツを重視するのも、そこに娯楽を求めていると同時に、人生そのものを見いだしているからだ。楽しむと同時に、人生を「勉強」しているわけである。大陸諸国の知識人が趣味的に哲学を論じようとするのに対し、アングロ・サクソンの人たちは、そんなヒマがあればスポーツを、あるいはゲームや賭博を始めようと言い出す。何が起こるかわからない博打はまさに人生であり、「ゲーム」こそが彼らの哲学なのである。
  先が見えない状況のなかで、自分の才覚や判断で何とか切り抜けていく。そのとき、どんな「心の構え」でもって切り抜けていくかを考える。そうすればやがてそのプロセスを、何ものにも代え難い楽しみと感じるようになる。そうした人生観が、アングロ・サクソン文化には深く根ざしている。

  (中略)
  現在、サッチャー改革やレーガン改革が再評価され、その先駆性や果断さばかりが強調されているが、もっとも注目すべきなのはアングロ・サクソンの、泥濘のなかを注意深く切り抜けていったときの、心理と状況認識の二分法とそこから生まれる戦略と戦術面の「柔軟さ」を尊ぶ姿勢であろう。
  先が読めない場合にも悲観的にならず、うまくいきそうなときにも楽観的にならずに、プロセス自体に情熱をそそぐ態度が、この「霧の時代」を生きるための不可欠の活力をあたえてくれるからである。

   第6回へ続く...


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