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「コピーコントロールCDについて」 / ぶらきぼう
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、 初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらず 成ったものは何一つなかった。言葉の内に命があった。命は人間を照らす光 であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
(ヨハネによる福音書1の1〜5)
 CCCDについて、レコード協会より著作権使用料の減免依頼がある。
 「違法複製物の流通などの防止と正規商品の販売増加のために何卒ご理解を賜りたい!」などと、いかにもごもっともな理由が附されているが、現時点において、この依頼は著作権管理団体に対してのみなされており、著作隣接権者(実演家及その事務所、レコード制作者としての音楽出版社)に対しても同様に行われているとは寡聞にして聞かない。
 我々著作権団体だけへの依頼とは、まことに片手落ちであると言わねばならない。
 世界的に見て、著作権の法体系には、大きく二つの考え方がある。一つは著作権と著作隣接権をわけず、すべて著作権とする考え方(アメリカ合衆国や、我が国の旧著作権法など)。それに対してヨーロッパ各国(大陸系)のように、著作権を「著作権」と「著作隣接権」にわける考え方の二つである。はたして現行の日本の著作権法は?というと、後者(著作権と著作隣接権の二つに分ける)に入る法体系採ている。これは新著作権法の立案が急務とされていたころ、国際情勢はといえば、、ローマ条約(いわゆる隣接権条約)やレコード保護条約がバタバタと締結されているのを見越してのことであろう。
 新著作権法(昭和45年制定)立案にあたっての中心人物であった加戸守行氏の「著作権法逐条講義」の「著作隣接権」の項にはこうある。少々長いが引用してみる。
 「実演家・レコード制作者・・を保護することとしたのは、実演・レコード・・といったものについては、著作物の創作活動に準じたある種の創作的な活動が行われるところから、そういった著作物の創作活動に準じた創作活動を行った者に著作権に準じた保護を与えることが、その準創作活動を奨励するものであり、かつ、そういった著作物に準ずる準創作物の知的価値を正当に評価するものであるからでございます。」とあり、この悪文の典型のような文章の、なんとわずか5行の間に5カ所も「準じる」またはそれに準じる言葉が使われている。
 「準じる」とは、ある比較する対象そのものと「等しい」との意味だ。だが、優勝と準優勝、決勝と準決勝、グランプリと準グランプリ、美人とチョー美人、と並べてみれば、どちらの価値が高いかなんて言うまでもないだろう。もし準ミスの賞金の方がミスのそれより高いミスコンがあれば、別の意味で暴動が起こるだろう。
 だから著作権と、それに「準じる」著作隣接権の保護の厚みには当然に違いがあり、著作隣接権の保護は、著作権に「準ずる」分だけ薄いのである。
 著作権と著作隣接権、優勝と準優勝・・この差は、著作権と著作隣接権の保護期間の差と、長きにわたっての著作隣接権者には人格権が付与されてこなかったことに最も端的に表れている。
 その昔、僕はレコード会社(つまり隣接権者サイド)にいて著作権を担当していた。その当時、隣接権の保護期間は、わずか公表後20年であった!著作権の「死後50年」に比べてあまりにその差はありすぎる!そのことに義憤を感じた僕は、課長に「この差はひどすぎませんか!」と尋ねた。課長はこういった。
「・・・確かに差がありすぎるね。でも、ま、縮めていこうという動きもあるから、徐々に差は縮まるだろうよ。でも追いつくことはないだろうね。」
「なぜです?」
「・・だって、初めに曲がないと、何も始まらないじゃない。だから以前は、レコード会社は専属作家を抱えていたんだよ・・」
 その後しばらくして、日米構造協議なるものがあり、「朕は国家なり」みたいな名前のアイアコッカなるフォードの会長がブッシュ(晩餐会で吐いて倒れて宮沢喜一に抱きかかえられた、父親の方のブッシュ)と共に来日し、そのときくっついてきた通商産業省の女の長官に恫喝されて隣接権の保護期間がまず30年にのびたように記憶する。
 そして2002年、隣接権者に人格権が付与された。ご同慶の至り。だが、著作者人格権に比べて現実的には非常に制限が多い。また、なにより実演家に対してのみの付与であり、レコード制作者には与えられなかった。個人でもレコード制作者の地位には立てるのだから、レコード制作者には法人が多いからというのは理由ではなかろう。そもそも法「人」というくらいだから人格権の付与もあってもよかったはずなのに。
 これらアキレスと亀のごとく、どうしても縮まらない著作権と著作隣接権の差は、よくよく考えれば、僕の上司がいみじくも言ったように、「はじめに著作物がなければなにも始まらない」のだから、至極当然のことである。
 「初めに言葉があった」・・・聖書に倣って言えば、まず「初めに作品があった」・・次にそれを歌い、演奏する実演家が生まれる、次いでその音を固定するレコード制作者が生まれる・・まさに「作品によらず成ったものは何一つなく」、これら一連の、著作権と著作隣接権の流れの作業のあと、はじめてそれを商品化するメーカーとしてのレコード会社が生まれてくる。この流れ全般を、われわれは「レコード業界」と呼んでいるが、レコードメーカーはこの流れの最下流に位置しているにすぎない。
 この川の最上流に位置しているのは誰か?いうまでもなく著作者である。
 この音楽の源流とも言うべき水源地の水を涸らしかねない提案がなぜ平然と、したり顔でなされるのか、不思議でならない。水源の環境を荒れさせては、川の総水量はますます減る。減るどころか濁ってしまい、人々ののどの渇きを癒すものとしての音楽は死滅してしまう。一方で水を涸らすような施策をしていて、水量が増える訳がないではないか?
 ここで比喩的にいっている「川の水量」こそ「レコードの売り上げ」のことだ。これはCD-Rという川下のできごとのせいだけで減っているわけではあるまい。まさに源流というべき著作物をつくるいわゆる作詞家・作曲家が良い作品を書こう!という元気をなくしているからだと考えるべきだ。
 作詞・作曲する喜びや楽しさを、もはや誰も教えてもくれない。もちろん著作する作業は楽しいことばかりではない。だがたとえ苦しんだとしても、それを乗り越えればその先に大きな喜びがあり、その喜びは、一旦金銭に置き換えられ、報われる。また、その金銭を利用してさらに大きな喜びを得ることも可能だ。そんな魅力が十分つたわられなければ誰も音楽業界という流れの上流を目指すものはいなくなる。いまになって「水量が減っている」と大騒ぎをしているが、自分で自分の首を絞めてきた結果である。
 今回のレコード協会の要求など、まさに「木を見て森を見ず」の典型だ。
 その昔、レコード会社は専属の先生をかかえ、大事に扱ってきた。いや、作家だけではない、歌手、演奏者、オーケストラ、果ては児童合唱団に至るまで、すべての発掘、育成を自らの手で行ってきたのだ。それはまさに、源流から最下流までのすべてを網羅していた。だから、レコード業界といえば、それはそのまま音楽業界を指していたのだ。
 そんな時代が確かに存在した。だが、もはや、その水源地の環境を開発、育成、整備しているのはレコード会社ではない。われわれ音楽出版社や事務所である。レコード会社は上流から流れて来る「桃太郎」を、安全な川下で包丁を持って待ちかまえているだけの存在に成り下がった。
 この間、レコード会社は、専属作家を解雇し、歌手、演奏者をアウトソーシングすることによってずいぶんコスト削減できたはずだ。確かにレコード会社は削減できただろう。だが業界全体では、ここのコストを削ることは不可能なのだ。なぜなら、まさにそこのコスト、すなわち、音楽作品を作る最初のコストこそ、音楽業界におけるイニシャルコストだからだ。「イニシャル」=始まりを削ってはその後何も生まれない。
 ではそのイニシャルコストはどこが負っているのか。繰り返して言う。われわれ音楽出版社だ。
 有望な作家を発掘し、育成し、良い作品を書かせるのにどれほどの労力や金銭がかかっているのか、いま一度考えてみてもらいたい。レコード会社は、そのことを忘れている。だから、業界全体の水を涸らすようなことを平気でいう。
 魚も住まなくなった荒れ果てた海を蘇らすために、その上流にある森を、もう一度再生しようという動きがあることを彼らはどういう思いで見ているのだろう。
 
・・「海を見て、森を見ず」・・さしずめ、「暗闇は光を理解しなかった」といったところか。

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