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「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、
初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらず
成ったものは何一つなかった。言葉の内に命があった。命は人間を照らす光
であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」 (ヨハネによる福音書1の1〜5) |
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![]() 「違法複製物の流通などの防止と正規商品の販売増加のために何卒ご理解を賜りたい!」などと、いかにもごもっともな理由が附されているが、現時点において、この依頼は著作権管理団体に対してのみなされており、著作隣接権者(実演家及その事務所、レコード制作者としての音楽出版社)に対しても同様に行われているとは寡聞にして聞かない。 我々著作権団体だけへの依頼とは、まことに片手落ちであると言わねばならない。 |
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![]() 「実演家・レコード制作者・・を保護することとしたのは、実演・レコード・・といったものについては、著作物の創作活動に準じたある種の創作的な活動が行われるところから、そういった著作物の創作活動に準じた創作活動を行った者に著作権に準じた保護を与えることが、その準創作活動を奨励するものであり、かつ、そういった著作物に準ずる準創作物の知的価値を正当に評価するものであるからでございます。」とあり、この悪文の典型のような文章の、なんとわずか5行の間に5カ所も「準じる」またはそれに準じる言葉が使われている。 「準じる」とは、ある比較する対象そのものと「等しい」との意味だ。だが、優勝と準優勝、決勝と準決勝、グランプリと準グランプリ、美人とチョー美人、と並べてみれば、どちらの価値が高いかなんて言うまでもないだろう。もし準ミスの賞金の方がミスのそれより高いミスコンがあれば、別の意味で暴動が起こるだろう。 だから著作権と、それに「準じる」著作隣接権の保護の厚みには当然に違いがあり、著作隣接権の保護は、著作権に「準ずる」分だけ薄いのである。 |
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![]() その昔、僕はレコード会社(つまり隣接権者サイド)にいて著作権を担当していた。その当時、隣接権の保護期間は、わずか公表後20年であった!著作権の「死後50年」に比べてあまりにその差はありすぎる!そのことに義憤を感じた僕は、課長に「この差はひどすぎませんか!」と尋ねた。課長はこういった。 「・・・確かに差がありすぎるね。でも、ま、縮めていこうという動きもあるから、徐々に差は縮まるだろうよ。でも追いつくことはないだろうね。」 「なぜです?」 「・・だって、初めに曲がないと、何も始まらないじゃない。だから以前は、レコード会社は専属作家を抱えていたんだよ・・」 |
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![]() そして2002年、隣接権者に人格権が付与された。ご同慶の至り。だが、著作者人格権に比べて現実的には非常に制限が多い。また、なにより実演家に対してのみの付与であり、レコード制作者には与えられなかった。個人でもレコード制作者の地位には立てるのだから、レコード制作者には法人が多いからというのは理由ではなかろう。そもそも法「人」というくらいだから人格権の付与もあってもよかったはずなのに。 |
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![]() 「初めに言葉があった」・・・聖書に倣って言えば、まず「初めに作品があった」・・次にそれを歌い、演奏する実演家が生まれる、次いでその音を固定するレコード制作者が生まれる・・まさに「作品によらず成ったものは何一つなく」、これら一連の、著作権と著作隣接権の流れの作業のあと、はじめてそれを商品化するメーカーとしてのレコード会社が生まれてくる。この流れ全般を、われわれは「レコード業界」と呼んでいるが、レコードメーカーはこの流れの最下流に位置しているにすぎない。 |
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![]() この音楽の源流とも言うべき水源地の水を涸らしかねない提案がなぜ平然と、したり顔でなされるのか、不思議でならない。水源の環境を荒れさせては、川の総水量はますます減る。減るどころか濁ってしまい、人々ののどの渇きを癒すものとしての音楽は死滅してしまう。一方で水を涸らすような施策をしていて、水量が増える訳がないではないか? ここで比喩的にいっている「川の水量」こそ「レコードの売り上げ」のことだ。これはCD-Rという川下のできごとのせいだけで減っているわけではあるまい。まさに源流というべき著作物をつくるいわゆる作詞家・作曲家が良い作品を書こう!という元気をなくしているからだと考えるべきだ。 |
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![]() 今回のレコード協会の要求など、まさに「木を見て森を見ず」の典型だ。 |
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![]() そんな時代が確かに存在した。だが、もはや、その水源地の環境を開発、育成、整備しているのはレコード会社ではない。われわれ音楽出版社や事務所である。レコード会社は上流から流れて来る「桃太郎」を、安全な川下で包丁を持って待ちかまえているだけの存在に成り下がった。 |
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![]() ではそのイニシャルコストはどこが負っているのか。繰り返して言う。われわれ音楽出版社だ。 有望な作家を発掘し、育成し、良い作品を書かせるのにどれほどの労力や金銭がかかっているのか、いま一度考えてみてもらいたい。レコード会社は、そのことを忘れている。だから、業界全体の水を涸らすようなことを平気でいう。 |
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・・「海を見て、森を見ず」・・さしずめ、「暗闇は光を理解しなかった」といったところか。 |
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