Chapter three : thirty-eighth episode



 8月下旬。東京浜松町のアルファレコードのビルに、ルネ・シマールのコーラス打ち合
わせのために集まる。
 ルネ・シマールはカナダ・ケベック州出身の当時13才の少年で、第3回東京音楽祭世
界大会に「ミドリ色の屋根」でエントリーしたのだが、おおかたの予想とはうらはらにな
んとグランプリを獲得してしまった。この受賞をきっかけに日本での本格的な音楽活動が
始まる。
 そしてレコード発売記念の大阪1回、東京2回のコンサートに、シュガー・ベイブの3
人プラス吉田美奈子の4人がコーラスを依頼されたのだ。

 山下、大貫、村松の3人は去年の秋、沢チエや亀淵友香のアルバムにコーラスで参加し
ている。今年になってからは彼女たちのコンサートにもコーラスで呼ばれた。
 このときたまたま、ユーミンこと荒井由実(後の松任谷由実)がコンサートを見に来て
いた。そしてコーラスを気に入ったユーミンは山下に自分のアルバムのコーラスを依頼す
ることになる。
 荒井由実のコーラスレコーディングは7月末から8月にかけて行われた。
 この頃から、吉田美奈子を加えた4人のコーラス編成になっている。
 今回のルネ・シマールの件は、荒井由実の所属するレコード会社から来た話だった。

 4人が打ち合わせの部屋に入ると、そこにはルネ・シマール本人とそのマネージャーら
しき人がいる。
 おたがいに面喰らってどぎまぎしていると、遅れてコンサート関係のスタッフがぞろぞ
ろ入ってきてルネたちと話し始め、4人は部屋の隅にほおっておかれる。
 しばらくするとスタッフの一人が4人に気付く。
 初めは、場違いな人間がいるなぁ、といった顔で見ていたがやがてコーラスを頼んだ人
間だと気がついたのか、とつぜん自己紹介を始めた。それからは関係者全員の自己紹介大
会。けっきょくこの日はたいした打ち合わせもなく、顔合わせで終わった。

 2日後、長門が友人らと設立した新しい事務所「テイク・ワン」にルネ・シマールコン
サート用の譜面と音資料が郵送されてきた。
 テイク・ワンはPAの会社と共同で京王線笹塚のマンションに2LDKの部屋を借り、
その所属アーティストの筆頭は日本ジャズ界の鬼才山下洋輔トリオである。だから後には
シュガー・ベイブの山下と合わせて「ダブル山下の事務所」と言われていた。
「わぁ、すごい譜面の量」
 村松は資料の多さにたまげる。
「僕はとなりの部屋でアイデア考えるから、君たちは遊んでていいよ」
 そう言って山下はとなりの6畳の部屋に移動する。今回のコーラスもアレンジは山下に
まかされていた。
「広い事務所ってやっぱり便利だね」
「ていうか、前は事務所なんてなかったじゃない」

 大貫の言う通り、今までは事務所なんてなかった。長門が個人でがんばってきたのだ。
風都市に入ったことも幻に終わってしまい、「こんどこそ」といった気持ちでやっと事務
所ができた。おかげでメンバーは暇さえあれば事務所に入り浸りになっていた。
 入り浸っていたのはシュガー・ベイブのメンバーだけではない。
 テイク・ワンの真下の部屋はテイク・ワンと親しい関係の会社が借りていたのだが、そ
こには伊藤銀次が入り浸っていたのだ。
 とうぜん階の上下での行き来も頻繁だ。
 この入り浸りと上下の階の行き来が、あの「DOWN TOWN」が産まれるきっかけとな
ったのである。

 電話を終えた長門が、雑談をしていた大貫と村松に話しかける。
「きのう先方と話をしてギャラとかも決まったよ」
「へえ、やったじゃん」
「で、いくらになったの?」
「ひとり3万だって」
「わお、すごい!」
「初めてね、そんなギャラ」
 この額が当時、妥当な額であったのかはわからないが、シュガー・ベイブのメンバーに
とって初めての金額であったのは確かである。
「でもね、条件があるんだ」
 メンバーの喜びに水をさすかのように長門が言う。
「ほらきた。やだね、大人は」
「いいから、その条件っていうのを聞きましょうよ」
 長門が続ける。
「先方が言うには、ルネのステージで普段の格好は困るって、ちゃんとした衣装でやって
欲しいって、こと」
「・・・」
「で、そのための衣装を用意する費用はギャラに含まれるっていうことなんだ」
「え〜!?」
「そんな洋服買ったら幾らするのよ〜」