Chapter three : thirty-seventh episode



「わ〜、自分の音が聞こえない!」
「あれ?僕もだ」
「・・・立ち位置を、変えて・・・っと」
「あぁ、ここだと、こんどはドラムが聞こえない」
 サウンドチェックが始まると、広大な野外ステージ特有の現象に悩まされる事になる。
 70年代初頭、日本のロックコンサートにおける本格的なP.A.システムはようやく稼
動し始めた時代で、まだ試行錯誤の段階にあった。
 ある会場でのフロントスピーカーシステムの規模や、パワーアンプの出力総数をどれく
らいにするか、などのノウハウが蓄積されていなかったのである。
 また、ミュージシャン側にとってフロントシステムより切実なステージ上のモニターは
システムの不備もさることながら、モニターエンジニアの力量不足がより大きな不安原因
になる時代でもあった。
 それでも室内の会場では、それほど問題にならなかった。
 室内なら、モニターの音がいっさいなかったとしても、各楽器の音は壁に反射され、適
度にミックスされた状態でミュージシャンに戻ってくるから、バンド全体の音が聞こえな
いという状態にはならない。贅沢を言わなければ、モニターなしでも演奏できた。
 しかし、広大な野外ステージになると話は違う。
 ステージ上での音の反射が全くない。
 よほど、足元のモニター(通称ころがし)やステージサイドのモニターがしっかりして
いないと、音が戻ってこない。
 ギターアンプ類は客席に向けて設置してあるので、野口は自分の叩くドラムの音しか聞
こえない。
 村松はわずかでもギターアンプスピーカーの軸線からはずれると、自分の音が聞こえな
い。
 山下はドラムのほぼ正面に立っているので、ドラムの音はそこそこ聞こえたが、自分の
ギターの音やバンド全体の音はほとんど聞こえない。足元から聞こえてくるのは自分のボ
ーカルだけだ。
 モニターエンジニアにその事を告げても事態はあまり改善されなかった。
 結局、ある程度自由に立ち位置を変えられる村松と鰐川は、よりマシな立ち位置を探し、
他のメンバーは固定された場所で、バンド全体のサウンドは頭の中で想像しながら演奏す
る以外なかった。
 ステージ上のモニター問題に見切りをつけて演奏を始める。
 フロントスピーカーから拡大された大音量が発せられた。
 今度は別の問題が起きた。
「なんだ、これは」
「や、やりにくい」
 モニター問題は反射がないことで発生したが、この問題は反射があることで発生した。
 フロントスピーカーから放たれた大音量が、野外会場の外側の壁や建物に反射してダイ
レクトに戻ってくるのだ。
 室内の会場でも客席側からの反射はあるのだが、複雑な反射で音像がぼけるのと、反射
距離が短いせいで時間差がコンマ数秒なので、あまり気にならない。
 正確に測ったわけではないが、この郡山会場の反射距離は往復で200〜300メート
ルにはなるだろう。時間差は1秒近くになる。
 テンポ120での1拍が0.5秒。
 自分の出した音が2拍ちかく遅れて聞こえてくるのだ。それも余計な反射がないから鮮
明に。
 とくにアタック成分の強いスネアやキックの音が2拍も(それもジャストではなく)遅
れ、なおかつ鮮明に聞こえてきてはたまらない。
 モニターの音より大きいくらいなのだ。
 実際に野口が叩いた音なのか、はね帰ってきた音なのか区別がつかなくなってくる。
 どちらのビートに合わせればいいのか混乱する。
 リズムがぐちゃぐちゃになってきた。
 演奏を中断する。
「やばいな、これ」
「どうにかなんないのかな」
 P.A.の人に相談した。
「まあ観客が入れば多少は減ると思うんですが・・・」
 と、頼りない返事。
 慣れるしかない、と言うのか。
 幻影に惑わされてはいけない。
 自分たちを信じてやりぬけ。
 日頃の精進が今こそ物を言うのだ。

 と、
 メンバーは、
 思った・・・

   事にしておこう。