Chapter three : twenty-sixth episode



 死に体にあった風都市ではあったが、むろん内部の動きが途絶えてしまったわけではな
い。スタッフ、ミュージシャン共々次の段階に向けてむしろアクティブに動いていた、と
言った方がいいのかもしれない。
 そんな状況下でのシュガー・ベイブデモテープ録音の話だった。

「おはよう。今日も元気だご飯がうまい」
 鰐川は先に来てドラムのセッティングをしていた野口に軽口であいさつする。
「なによ、それ」
「いや、ちょっと緊張をほぐそうと思って」
 野口はセッティングの手を休めて話につきあう。
「確かにね。クマやター坊や村松っちゃんはコーラスとかの仕事でけっこうちゃんとした
スタジオ慣れてると思うけど、俺らは初めてだもんな」
「ほんと、こんなちゃんとしたレコーディングスタジオ初めてだから、緊張するなって言
うほうが無理だよ」
「それにさ、オレまだドラム始めて1年だもんなぁ」
「あっははは。だいじょうぶだよ。普段どおりやれば」
 鰐川はあたりを見回し、アンプの所在をチェックする。
「ギターアンプやベースアンプもちゃんと借りてくれたみたい。よかった。じゃあ僕もそ
ろそろセッティングしようかな」
 ドラムやアンプを持っていないメンバーのために、それらの機材は風都市がレンタルし
てくれていた。
 この日、録音予定の曲は「夏の終りに」「SHOW」「指切り」そしてシングル候補曲の「パ
レード」の計4曲。
 レコーディングはまずドラムの音決めから始まる。
 しかしこれが難題。
 野口にはレコーディング用の微妙なドラムチューニングは無理だったので、山下が代わ
りにチューニングを行うが、これもなかなか決まらない。ついには場数を踏んでいるプロ
デューサー大瀧詠一本人が登場して、あれやこれや格闘する。
 昼過ぎにスタジオに入って、ようやくドラムの音決めが終わったのが午後4時ごろ。
 他の楽器の音決めは意外にすんなりと終わり、休憩をはさんで5時からとりあえず演奏
してみる事になった。
 演奏が始まるとプロデューサー大瀧はモニタールーム内のミキシングコンソールの前に
座り、フェーダーを上げ下げしてバランスをとったり、ソロスイッチを押して各楽器単体
の音をチェックしたりしている。そして演奏が終わると、こうつぶやいた。
「やっぱりこれじゃダメだな」

 この頃、日本の録音スタジオは、ようやく普及し始めた16チャンネルマルチトラック
レコーダーを導入し、それぞれの楽器をひとつのトラックに録音する方法をとり、スタジ
オ自体の箱鳴りを抑え、楽器はブース内で演奏されることで分離のよい音を録音する方向
を目指していた。
 楽器の音が分離良く録音されていれば、演奏者がひとり間違えた場合、そのパートだけ
録音しなおせば良く、他の演奏者の録音されたトラックを無駄にすることがない。演奏技
術が未熟なバンドにとってはまことにありがたい方法だ。もし、このやり方がなかったら
シュガー・ベイブのレコードが世に出るのは難しかっただろう。
 またもうひとつの利点は、ミックスダウン時に微妙なバランスや各楽器に固有のエフェ
クトをかけられる事だ。これらも分離良く録音されていなければ難しい。
 ところがここ、ニッポン放送銀河スタジオはそういった新しい考え方で作られたスタジ
オではなく、もう少し旧いスタイルのスタジオだった。
 スタジオの箱も良く鳴るし(ちなみに80年代以降はこちらの方が好まれる傾向にあ
る・・・あ〜、時代の流行り廃りよ・・・)、ブースなんてものもなく、音の遮蔽板が数
枚あるだけだ。
 だから例えば、大貫のピアノのチャンネルを単独で聴くと、野口のドラムの音や村松の
ギターの音が盛大に混入している。
 大瀧がつぶやいたのはこの事だった。
 トークバックスイッチを押して、大瀧はメンバーに告げる。
「セッティングをやり直す」
 大瀧はプレイルーム内に入ると楽器の配置から直し始めた。
 まずドラムやアンプはなるべく距離をおいて配置し、間に遮蔽板を置き、さらには毛布
やピアノのカバーで、マイクごとアンプやバスドラム、ピアノを覆っていった。
「ひゃあ〜、アンプもドラムもピアノもほとんど見えないじゃん」
 鰐川と村松は眼を丸くしていた。