Chapter three : third  episode



 山下がギターケースの中から一枚のコード譜を出すと、みんなはそれを書き写した。
「ふ〜ん、風の吹く日、ていう曲なんだ」
 と、鰐川がつぶやく。
「え、もうできたの?」
 大貫がびっくりする。
「思ったより早くできたんだ」
 山下は曲が早く仕上がったのが嬉しいのか、珍しくにこにこしながら大貫に歌詞を渡す。
「歌詞もできてる。で、メロは前と一緒?」
「一ケ所直したところがあるけど、あとで音出ししながら教えるよ」
 どうやら山下と大貫はN宅以外でも会って、曲の打ち合わせをしていたようだ。
 コード譜を書き写し終わると、みんなはぞろぞろと練習部屋に移動した。

 まず山下がイントロのフレーズを弾く。シンコペーションを多用した印象的なリフだ。
 コード譜にはAm7/Dと書いてある。でーぶんのえーまいなーせぶん、と読む。
 いろいろな表記法があるが意味するところは同じ。ようするにD11thの事だ。11th
コードはドミナントで使われる7thコードの上位発展形である。それを何故わざわざ書
き換えるかというと、その方が鳴らす音列を象徴しているからだ。
 具体的に説明すると、D11thは下からD(1度),F#(3度),A(5度),C(7
度),E(9度),G(11度)の6音で構成されている。しかし6音すべて鳴らすと3度
のF#と11度のGの音が半音でぶつかって響きが濁ってしまうので、通常は3度のF#
の音を省略する。そしてDを根音と考えて残りの4音だけを見てみるとA,C,E,G・・
ラドミソ・・まさにAm7そのものだ。ゆえにAm7/Dと書いた方が鳴らす音列に悩ま
されなくて済む、というわけだ。さらに極論すれば11thのコードを特徴だてているのは
7度、9度、11度の3音ともいえる。この場合はC,E,G・・ドミソ・・の3音。こ
れは中学の音楽の授業で最初に習う主要三和音のひとつ、トニックC(ハ長調)のコード
そのものだ。ゆえにC/D(でーぶんのしー)と書く場合も多い。
 村松が昨年末に悩んでいたのもこのコードのことである。さすがにここ数カ月のリハの
おかげで慣れないコードにも馴染んできたが。

 閑話休題。
 山下が説明を始めた。
「野口とワニは今のリフに合わせて。村松君はリズムの隙間を埋めるようなオブリを考え
て欲しい」
「わたしは?」
「ター坊はこの前やってたフレーズでいいよ」
「じゃあ何回か合わせてみようか。ワン、ツー、スリー、フォー」
 ダーン、ン、ン、ダーン、ダ、ダーン、ン、ン・・・
「ちょ〜っと、やめ〜」
 8小節を10数回くり返したところで、山下が中断させる。
「村松君さ、そういうんじゃなくて」
「う〜ん、たとえばさ、コーネル・デュプリがよくやってる・・・1弦と2弦でスライド
させるような」
「こういうの?」
 村松は試しに1、2弦を押さえて5フレ、7フレ間をスラーさせてみる。
「あー、それそれ。そういうの」
 この小さなフレーズはその後のレパートリーの中でも多用されることになる。