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サルでもわかる「西洋音楽史」 |
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![]() 日頃、人様に「これ聴きなよ!」とか「これ読みなよ!」とおすすめする習慣をまったくもたない僕は、同じく人様に「これ聴きなよ!」とか「これ読みなよ!」とすすめられても、まったく馬耳東風である。だが、この友人の「これおもしろい!」であれば、話は別である |
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![]() 岡田暁生の「西洋音楽史」という本だった(写真左)。発見したとき「あっ、これ、めっちゃおもろいクラシックの本やったやん!ヒーハー!」とブラマヨの小杉君のような声をあげてしまった。 |
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![]() 著者「岡田暁生」氏は、この本でクラシックを「西洋芸術音楽は1000年以上の歴史をもつが、私たちが普段慣れ親しんでいるクラシックは、18世紀(バロック後期)から20世紀初頭までのたかだか200年間の音楽にすぎない」とし、「西洋音楽の歴史を川に譬えるなら、クラシック音楽はせいぜいその河口付近にすぎない。」「確かにクラシックの200年は、西洋音楽史という川が最も美しく壮大な風景を繰り広げてくれた時代、川幅が最も大きくなり、最も威容にみちた時代ではある。」「だが、この川はいったいどこからやってきたのか。そしてどこへ流れていくのか」と考察する。 |
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![]() 「単に音楽史上の重要な人物名や作品の用語などを、時代順に洩れなく列挙したりすることは、私の意図するところではない」「ごく一般的な読者を想定して、可能な限り一気に読み通せる音楽史を目指し、専門用語などの細部には極力立ち入らない。」 「そして何より、中世から現代に至る歴史を「私」という一人称で語ることを恐れない(多くの音楽史の本は「正しい」ことを「客観的に」語ろうとするあまり、結局ストーリーの推進力を失っているように、私には思える)」 と言う。 |
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![]() 「ただ一つ、本書を通じて私が読者に伝えたいと思うのは、音楽を歴史的に聴く楽しみである。」 「クラシックの世界」とは、「自分が好きな曲」「感動した曲」「よくわからない曲」「聴いてみたい曲」「あまり興味のない曲」などが、単にヴァイキング形式のレストランよろしくずらりと並べられている非歴史的な空間ではない。」 「このような音楽はどこから生まれてきたのか」 「それはいったいどんな問題を提起していたのか」 「こういう音楽を生み出した時代は、歴史の中のどの地点にあるのか」 「そこから何が生じたのか」 こういうことを考えることで、音楽を聴く歓びのまったく新しい次元が生まれてくる、そのことを伝ええたいのである」 と言う。 |
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![]() 「この本の執筆で私が何よりこころがけたこと・・<中略>・・「私」という語り手の存在を中途半端に隠そうとしないこと。語り手の主観を隠蔽し、それでもって擬似実証科学的な客観を装うーこれこそ私が最もやりたくなかったことである。「○○○○年に誰々が何々をどこそこで作曲した」。これは正しいけれども、まだ無意味(ナンセンス)なのだ。「事実」に「意味」を与えるのは、結局のところ「私」の主観以外ではありえない。いい尽くされたことではあるが、「歴史を語る」とは常に私と歴史との対話である。」 |
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![]() パチパチ! |
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![]() パチパチ!パチパチ! |
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![]() 彼は、音楽家、ギタリストとして比類なかったが、それは、彼がつねに「音楽とは何か」「音楽はどこからきたのか」「音楽はどこへいくのか」を考え続けていたからである。 |
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![]() そろそろ個人の視点で書かれた映画評が読みたい、と思うのは僕だけだろうか? |
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![]() 1996年10月 |
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