前のページへ 次のページへ 「エートス」こいて、もぉ〜!トップへ Net-Sproutトップへ
映画「300」と民主政〜その1

 鳩 山政権下における閣僚と官僚との主導権争いについて、マスコミは「そんなに威丈高になって喧嘩しても、逆効果になる。はやる気持ちはわかるが、落ち着いたらどうだ?“官僚”はうまく使いこなすことこそが肝要である」という論調が主流である。

 はたしてそんな時間的余裕があるのだろうか。

 数 年前に「300」(スリーハンドレッド)という映画を見た。古代ギリシャ、スパルタ王「レオニダス」率いる精鋭戦士300人が、古代ペルシャの専制君主「クセルクセス」率いる100万の軍隊と戦った「テルモピレーの戦い」を題材とした映画である。

 原 作はアメコミなので、史実に忠実な歴史映画ではない。ムッキムキの裸のスパルタ兵士が奇怪、珍妙、面妖なペルシャ軍とひたすら死闘を繰り広げるだけのCGスペクタクル映画である。胴体や生首が飛び、血しぶきが噴き上がるが映像が美しいのと美術が素晴らしいので最後までわくわくして見てしまった。たまたま今回の民主党の獲得議席数が300近くであり、ペルシャが専制“官僚”国家として描かれていたので、民主と官僚の戦いにボンヤリなぞらえていた。

 実 は人類の政治史の中で、民主政がその政体であった例は極めて少ない。
その多くは独裁政であり、専制国家であり、帝政であり君主政であった。近代民主政が根付いてくるのは18世紀に起きた「アメリカ独立」と「フランス革命」の双子の大事件後の、わずかこの200年以内のことであり、もっと言えば、第二次世界大戦終了後の20世紀後半という「ごくごく」最近のことである。しかも第二次大戦後の成立した国の中には、これまた共和政という名の独裁政権や軍事政権が多く存在するということを忘れがちである。

 そ の古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、政体を六つにわけて論じている。まず支配者の「数」で「単独」「少数」「多数」でわけ、各々「良い政体」「悪い政体」でわけるので、計6種。

「良い単独政体=君主政」
「悪い単独政体=僣主政」
「良い少数政体=貴族政」
「悪い少数政体=寡頭政」
「良い多数政体=国政」
「悪い多数政体=民主政」。

 そ してこれを良い順番にこう並べている。

 君主政>貴族政>国政>民主政>寡頭政>僣主政

 驚く事に「われらが」民主政は、なんと悪い政体のなかでは、まだましな政体として、4番目の扱いである。

 さ らにその師匠プラトンに至っては、民主政はクソミソの扱いである。もっとも、プラトンが愛してやまない師匠「ソクラテス」を民主政ゆえに刑死させられたのだから、民主政に対して恨み骨髄に徹するのも無理はないけど。

 そ のプラトン(ソクラテス)は、政体は以下の順を辿って経年劣化するという。

 哲人による政体(単独)
     ↓
 名誉ある貴族支配政体(少数)
     ↓
 寡頭支配政(少数)
     ↓
 民主支配政(多数)
     ↓
 僣主支配政(単独)

 プ ラトン(ソクラテス)もアリストテレスと同様、僣主支配政を最悪の政体として位置づけているが、その最悪の政体は、「民主政」を経た後に出現すると言っている。これはまるで、ヘシオドスがその著「神統記」でいう、世界は「金の時代」→「銀の時代」→「青銅の時代」→「鉄の時代」と徐々に悪くなっていくという時代観とも合致している。

 も ちろん、「ヘシオドス」が生きた「今」は、大地が荒廃し、生きるに厳しく、道徳は乱れ、混乱の極みにある「鉄の時代のギリシャ」であり、民主政のアテネが、貴族政のスパルタに破れた「ペロポネソス戦争」直後の混乱期に生まれた「プラトン」が生きた「今」も「鉄の時代のアテネ」であろうから、両者が似たような歴史時代観を持つのも無理はない。

 も っとも、人は幸せなときに「なんでおれってこんなに幸せなのだろうか?」とは考えることはない。厳しく理不尽な鉄の時代を生きざるを得ない時「なんでおれってこんなに不幸せなの?その理由はなに?おせ〜て!」と考えるところから哲学は始まる。孔子だって、春秋戦国時代という混乱期に生まれたから「理想の国家とは何か?」と考えてあのような素晴らしい考えを生み出した。

 そ ういった意味では、“失われたこの10年”(僕にとってはこの40年)は、多くの日本人に与えられた「いつのまにやら日本人であることがかくも不幸せなことになってしまったのは何故なのか?」と問い直す“望外の”機会というべきであろう。その10年という期間があったからこそ、今回、劇的な政権交代が実現したのである。

 と はいえ、奴隷制に立脚し、しかもポリスという極めて小規模であったがゆえに成立しえた古代ギリシャの直接民主政と、「人は生まれながらにして自由、平等」という基本的人権に立脚し、広範囲な国土における統治制度としての「近代民主政」を同じ土俵上で語ることはできないが、“現在”も2500年前の”古代“もかわらぬ真理もある。

 ア リストテレスは、その著「政治学」で、「君主政であろうと貴族政であろうと、国政であろうと、いずれの「善き」政体にしても、やがて権力志向に走り、いつかは腐敗していくことにおいて変わりはない」と言う。「理想の政体などというものはない。」「君主、貴族、大衆がそれぞれ抑制、牽制しあうことによってのみバランス(均衡)が保たれる。その効果的な方法をさぐることに意味がある」と言う彼はまさしく「現実的な」視線の持ち主である。ラファエロの傑作絵画「アテネの学堂」に描かれたプラトンが天を指差し、アリストテレスの指が地を指し示しているのは、実に示唆的である。

 古 代の政治が清廉潔白で、現在の政治が腐敗にまみれているということではない。「権力はやがて腐敗する」そのことを事実として受け止め、いかに腐敗が起こりにくくできるか、いかに腐敗のスピードを遅くできるか、いかに腐敗の程度を弱くすることができるか、いかに早く腐敗を発見できるか、に照準するべきである。


前のページへ 次のページへ 「エートス」こいて、もぉ〜!トップへ Net-Sproutトップへ