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「カメラを止めるな!」を止められるのは誰か?音楽プロデューサーは労働者なの?

 題の超低予算映画「カメラを止めるな!」を観てきた。とっても面白い!といってもどう面白かったのかについては話せない(「ネタバレ禁止」という言葉があるが、今回はまさにそれ!ネタそのものが面白いので「ネタ(筋立て、コンセプト)」をバラさずしてその面白さを)話せないのである!あと初めて観る役者さんばかりであったが、その俳優さん達のどの演技もとっても新鮮!!また聞けば製作予算は300万円ちょっとだとか・・「パイレーツ・オブ・カリビアン」が300億円であるから、1万分の1である。それでいて「パイレーツ・・」の1万倍面白いのだから、その対費用オモロさ度は1億倍である。

 の「カメラを止めるな!」について盗作騒動が起きている。「そもそもこの映画(以下「カメ止め」)はお芝居の「GHOST IN THE BOX」(以下「GITB」)に着想を得て企画・製作したしたものである」・・とは「カメ止め」の上田監督のコメント。それに対し「GITB」の演出家である和田氏は「私の舞台の原作が無断で勝手に映画化された!」と抗議している・・・というのが「カメ止め盗作事件」のおおまなか対立の構図で、これについてネットでも多くのコメントが上がっているが、弁護士の意見も数件見受けられる。弁護士の多くは、これは「原作」か「原案」かの問題であるとコメントしている。実は、たいていの人は逆に思っているが、著作権は「アイデア」(原案)の利用は保護せず、アイデアが表現されたモノ(原作)の利用を保護するもの(これを難しくは「アイデア・表現二分論」といいます)である。従って「GITB」のアイデア(筋立て、コンセプト)=(原案)をパクったのであれば著作権的にはセーフ!「GITB」をそのまま映画化(翻案)(原作パクリ)したのであれば、アウトという見立てである。確かに争点はそうなりますよね!

 が、そもそも和田氏は舞台の演出家である。演出家は著作権法上では実演家の扱いを受けるので、著作隣接権者であっても著作者ではない。著作権の支分権に「翻案権」はあるが著作隣接権にはそれがない。つまり舞台演出家に「おれの芝居を無断で映画化するな!」という権利(翻案権)はないのである。あるとすれば脚本家である。しかし今回、脚本家A氏は沈黙している。また和田氏は脚本の著作者であるとも主張しているのだが、ご本人自身が「この「GITB」の脚本は僕(和田氏)がアイデアを話し、それを脚本家のA氏が脚本化にしたものである。」と述べている・・するとやはりここでも「アイデア・表現二分論」が顔を出す・・つまり和田氏はアイデアを出したが、それを脚本というモノに表現したのはA氏であるからここでも和田氏は著作者の位置に立ち得ないのである。

 ころでそもそも舞台公演は著作権法上どのような扱いなのであろうか?実はこれ(舞台公演)は脚本・音楽・振り付け・舞台美術などのそれぞれの「著作物が上演・演奏されたモノの単なる集合体」でしかなく、公演そのものを「一つの著作物」とはみなさないというのが現行著作権法の見立てなのである。従ってもし舞台公演が著作物であれば映画の著作物の著作者が映画監督(達)であるように、その著作者は「演出家」になるであろうが現状そうはなっていない・・つまりいずれにしてもハナから和田氏には「カメラを止めるな!」を止める権利はないということになる。

 かし、しかし、しかしである。そもそも舞台公演が著作物でないということに皆様の同意が得られるものであろうか?著作権法第10条にはご丁寧にも「著作物の例示」として9種類の著作物が列挙されている。だがそこに「映画の著作物」の記述はあっても「舞台公演の著作物」の記載はないのだ・・・わかりやすく言うと「映画・ロミオとジュリエット」は著作物だが「舞台公演・ロミオとジュリエット」は著作物ではないということである!ワオ!である・・ワオキツネザル!である(わからないひとはスルーしてください・・)。もちろん、第10条はあくまでも例示であるので、たとえここに記載がなくとも「思想・感情が創作的に表現されたモノ」であれば著作物であることは論をまたない。よく著作権の解説本には「マンガがそうである」などの記述が散見されるが「舞台公演もその一つである」との記述は一度も見かけたことがない。

 が、舞台公演が著作物でないのであれば、お芝居はいうに及ばす、オペラもブロードウェイミュージカルも宝塚公演も歌舞伎公演も劇団四季の公演(キャッツもアラジンもライオンキング)もそれ自体(舞台公演)は単独の著作物ではなくなってしまう。シェークスピアのお国のイギリス人に「日本では舞台「ロミオとジュリエット」は著作物ではないのです」とお伝えすれば国交断絶されるであろう。ドイツ人とイタリア人とオーストリア人に「日本ではオペラは著作物ではございません」と言ったら大使館員を引き上げられるであろう。安倍首相がトランプ大統領に「日本政府はミュージカルを著作物とは認めておりません」と言えば200%の報復関税をかけられるであろう。兵庫県民に「わが国では宝塚公演を著作物と認めません」と言えば兵庫県は日本からの独立を画策し始めるであろう・・ さらにこのことを知ったら、激怒した蜷川幸雄さんと浅利慶太氏が天国から我が国めがけて灰皿やパイプ椅子をホイホイ投げつけてくるであろう。

 こで現行の著作権法下においてどうやら訴権がなそうな和田氏には、そもそも舞台公演は著作物であることを訴えて、それを認めさせ、しかるのち、その舞台公演の著作者は舞台演出家であることを認めてもらう訴訟を提起されることをお勧めする!


本題はここからである。

 今回この問題を考えていたら、わが音楽業界における「プロデューサー」は何なのか?改めて考えさせられた。

 が国の著作権法下において、音楽の著作物は歌詞とメロディであり、歌唱・演奏などは著作物ではないが、実演家やレコード製作者の著作隣接権の対象物であるとされる。つまりわれわれが耳にするところの音楽(音源)は歌詞・メロディ(著作物)と歌唱・演奏(著作隣接権の対象物)の単純合体物との扱いである。


まり・・・どうやら日本国政府は音楽の著作物と演奏・歌唱がスタジオで単に合体すれば我々が感動するような音楽(音源)が自然と生まれるものと考えているようなのである!果たしてそうであろうか?

 断じてそうではない。そこでは「プロデューサー」という魔法使いの存在があってこそ我々を感動させる音楽(音源)が誕生するのである。

 が、そのプロデューサーは現行の著作権法下においては、著作者でないのはもちろん著作隣接権者ですらない・・すなわち、プロデューサーは単なる役務提供者、つまり労働者、ワーカーでありレイバーにすぎないのである。


T・ボーン・バーネット、ダニエル・ラノア、ラリー・クライン、ジョー・ヘンリー、ウォルター・ベッカー、アルカー・・あまたの名プロデューサーがいてこその名盤誕生である。

 それなのにプロデューサーには、見事になぁ〜んも、なあ〜〜〜んの権利も与えられていない!

 ジャーなアーティストであってもお気に入りのプロデューサーのスケジュールが空くまで何年でもレコーディングを待つというこのご時世なのに!である。

そこで舞台の演出家にまず著作者の地位保全を訴える裁判を起こしてもらい、勝訴したら、音楽プロデューサーも著作者の地位保全の訴えを起こしてもいいんじゃなかろうか?


はいえ、もしプロデューサーに著作権を認めようという動きが出てくれば、1970年の新著作権法制定時に、映画業界が、映画の著作物の著作者は映画監督であることはシブシブ認めても、その著作権者は映画会社であるとムリヤリ法律で定めさせたように、音楽業界も著作者はプロデューサーであることを認めても著作権はレコード製作者に帰属するという方向に働きかけるんだろうな・・だってただでさえ権利関係が複雑なのに、これに新たな権利が加われば、もっとビジネスがやりにくくなるのだから・・

 んと、カメ止め事件についての感想が着地したのはここだった!


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